目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    五 参勤交代と旅行
      参勤交代の制
 参勤交代とは、将軍への臣従のあかしとして幕府が大名を一定期間江戸に参勤させた制度である。三代将軍家光の時代、寛永十二年(一六三五)の「武家諸法度」の第二条「大名小名、在江戸交替相定むるところなり、毎歳夏四月中、参勤致すべし」という規定により制度化され、諸大名は原則として一年ごとの在府・在国を繰り返すこととなった。このとき参勤交代を命じられたのは外様大名であり、同十九年に譜代大名も加えられた。
 関ケ原の戦い後、諸大名の江戸参勤が始まっていたが、在府の期間や交替の時期は必ずしも定まってはいなかった。一門大名である福井藩では、秀康が慶長七年(一六〇二)、九年、忠直が慶長十二年家督御礼のため、元和元年(一六一五)大坂出陣から帰国後まもなく参府した。忠昌は寛永二年、四年、六年、十一年、十九年に参勤し、十九年以降は四月参勤が例となった(「家譜」)。譜代大名の参勤時期は六月または八月であり、小浜藩主酒井忠直は、万治二年(一六五九)は五月十六日、寛文九年(一六六九)は八月十六日に発駕した(「御自分日記」)。
 参勤は大名が幼少や病気の時を除いて、幕末の文久二年(一八六二)まで一年おきに実施された。この年参勤交代の制が改定され、在府は三年ごとに約一〇〇日間となり、江戸在住であった大名の妻子の帰国が許されるなど大幅に緩和された。なお、在府期間については享保七年(一七二二)の上米の制により同十五年まで半年間であった。
 国元への暇と参府の手続きについて松平光通を例にみてみる。忠昌の死後、正保二年(一六四五)家督を継いだ光通には、承応二年(一六五三)初めて国元への暇が出た。五月晦日、将軍家綱の使として老中の松平乗寿が屋敷を訪れ、国元への暇の許可が出たことを告げた。このとき光通は白銀一〇〇〇枚・帷子一〇〇枚・単一〇〇枚を拝領した。翌日、光通は暇が出たことの礼に登城し、将軍に拝謁し、馬を拝領した。六月二十七日に江戸を出発し、閏六月十日福井に到着、その日のうちに帰国御礼のため、高知席の本多重方を使者として江戸へ出発させた。重方は江戸城へ行き、奉書紙五〇束を献上した。延宝三年(一六七五)からは献上物に昆布・干鯛・樽など二種一荷が付け加えられた。
 承応二年十一月、翌年春の参勤時節の伺を幕府にたてたところ、幕府からは翌三年二月に再度伺うよう返書があった。三年二月、四月中に参勤の旨の老中奉書が出されたので、光通は三月二十八日福井を発駕し、四月十日江戸に到着した。その後、将軍の使として老中が屋敷を訪れ、追々御目見仰せ付けられるの旨の上意が伝えられた。この後、光通は登城し、将軍に参勤の礼を言上し、太刀銀三〇〇枚・綿五〇〇把を献上した。元禄元年(一六八八)からは土産として五色奉書紙を献上した。また、幕府役人への贈物も慣例化しており、老中へ太刀一腰・蝋燭三〇〇挺・馬代金一枚、若年寄へ太刀一腰・蝋燭二〇〇挺・馬代金一枚をはじめとして側衆から目付に至るまで太刀・馬代金が贈られた(「家譜」)。



目次へ  前ページへ  次ページへ