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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      渡舟の経営
 渡舟の大きさについては、安永八年(一七七九)に白鬼女渡で造られた渡舟は、長さ九尋四尺(約一六メートル)、幅六尺四寸五分(約二メートル)、深さ一尺二寸五分であった。白鬼女渡での渡舟の製作費は、寛政元年では銀一貫三八五匁かかった。それらは地元の入札で製作されていたが、代銀は一部の地元負担を除き、福井藩から下付されている(舟津五丁目区有文書)。もっとも、渡しによっては、隣郷の村々へその負担を割り当てていた。
 渡舟の運賃について同じく白鬼女渡を例にみてみよう。白鬼女渡では、武士やその奉公人に対しては、従来から渡賃は取らない定めになっていたが、一般の旅人からは、普通一、二文を、雪中や夜中、急用などの時は五文を徴収した。大水の時など無理に渡る時には、人足を多く要するため、さらに増額された(舟津五丁目区有文書)。一方、近隣の村人に対しては、渡賃をその都度徴収するのではなく、その渡しを利用する隣郷の村々から、年額を定めて割賦銀や給米などが支払われる方法がとられていた。この範囲は上石田渡で六八か村(石田上区有文書)、鐘鋳渡で木部一八か村(小島武郎家文書)というように、広範な村々が負担していた。



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