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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      近世における渡舟
 すでに中世から、越前では三大河川をはじめとして、渡舟が利用されている。天正十一年(一五八三)、賎ケ嶽の戦いで勝利を収めた羽柴秀吉は、北庄城主柴田勝家を追って越前に侵攻した。このさい、秀吉は、府中を鎮圧した四月二十二日に「さばや船頭中」に宛て、また北庄城を陥落させた四月二十四日に「あこ大渡船頭中」「あこ小渡船頭中」に宛てて諸役免許状を出している(舟津五丁目区有文書 資5、石倉家文書 資6、『越前国名蹟考』)。その経緯について、安居小渡の覚書では、秀吉が北庄愛宕山天満池に陣を張った時、「毛屋の河戸」で使者の舟の御用を勤めた安居の船頭たちに諸役免許状が下されたという(『福井県足羽郡誌』後篇)。江戸時代に入っても、軍事的見地から橋が架けられたのは福井大橋(九十九橋)や舟橋など一部に限られ、多くの川では渡舟が利用された。
写真152 鳴鹿の渡船場(「鳴鹿大堰図」)

写真152 鳴鹿の渡船場(「鳴鹿大堰図」)



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