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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      近世後期の河川交通
 陸上輸送業者の保護という意図とは裏腹に、文政十三年の規定を契機として、三河戸を中心とした川舟輸送はいっそうの隆盛をみせる。越前国内産の商品は、奉書・打刃物をはじめ多数にのぼるが、例えば、大野郡の勝山・大野地域の幕府領の村々から出された外字荷物は、舟橋宿まで陸上輸送された後、三国湊まで川下げされ、そこから上方へ海上輸送された。また勝山産の煙草荷物は、福井城下まで陸上輸送された後、福井大橋下から三国湊へ川下げされた(山口武助家文書)。これらは陸上の脇道輸送と相まって、多くの宿場や馬借を脅かすことになった。
 若狭においては、西廻航路が整備された後も、小浜から近江今津に至る輸送路は利用されていたが、川舟輸送は十八世紀初頭にはとだえていた。十九世紀に入ると、松前物や加賀藩の年貢米の大津廻米が駄賃の高騰や陸上輸送の渋滞により、北川をさかのぼる川舟輸送が何度か計画され、天保八年には一時実用に供されたこともあったが、水路の変化や水量の乏しさから、ほどなく廃絶した(『小浜市史』通史編上巻)。また、南川においても口名田地区で製造された瓦をはじめとする物資が河口の小浜湊へ運ばれ、他国へ積み出されている(『若狭遠敷郡誌』)。
 このように近世後期においては、河川交通・湖上交通・陸上交通を組み合わせた輸送網が形成され、河川交通がいっそうの隆盛をみせた一方で、荷物の通らなくなった宿場は寂々たる有様であった。明治維新による宿駅制度の廃止は宿々の没落を決定的なものとした。明治以降、鉄道や道路が順次整備され、新たな陸上輸送網が形成されるまでの間、河川交通は諸荷物の輸送に大きな役割を果たし続けた。



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