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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      舟橋宿などの反論
 九頭竜川と北陸道が交差する舟橋宿は、往古より河岸場として荷物の舟積みを行ってきたが、文政十三年の規定では三河戸に含まれなかった。しかしその後も舟橋宿の対岸近くに位置する在郷町森田の商人たちは、駄別を受け取りながら荷物の舟上げを続けていた。些細な商人の争論を裁定する形で、天保五年(一八三四)に福井藩は舟橋宿に対して、村用の品を除き、商物や村外への取次物に似せた物など、いっさいの舟上げを禁止するという先の規定の遵守を命じた。これにより在郷商人が村方のものとして舟上げしていた諸荷物も、商人荷物として差し止められることになった。
 これに対して舟橋宿は、三河戸というのは文政十三年の規定で初めて唱えられたものであり、松岡藩があった時には松岡・舟橋間の御定賃銭も決められるなど、従来から諸荷物の舟積みを行っている河岸場であるのは間違いない。諸荷物の舟上げが差し止められれば、大勢の商人が難渋するのはもちろん、村々の百姓も鰊などの肥料が不足するため農作物の作柄に深刻な影響を与えるなどとして反論した。時あたかも天保の大飢饉を迎え、農作物の甚大な被害に直面したためか、天保八年には、舟上げ荷物について商物と村用との区別なく口銭を納めることになり、事実上、舟橋宿は三河戸同様の機能が認められることとなった(森藤右衛門家文書)。
 また、川下げについては、従来は天明六年の福井藩の触で、越前国内産の商人荷物をもよりの宿場から河岸場まで陸上輸送し、そこから三国湊へ川下げすることは認められていたが、文政十三年の規定はそれをも禁止する内容であった。これにも川舟業者などから種々の故障が唱えられたため、天保十一年に福井藩は、先の規定のうち、川下げの部分を撤回するに至った(松平文庫)。
 他藩や幕府領の村々にとって、文政十三年の規定は寝耳に水であった。幕府領の村々では、これは福井藩領内のみを対象とした掟であるとみなし、従来、もよりの河岸場から年貢米の川下げや肥物その他の品物の購入にさいしては、対岸の耕作地などへ渡るための小舟を利用していたことから、遠方の三河戸まで荷物を持ち出すという規定の遵守には難色を示している(山本喜平家文書 資5)。こうした在方の川舟の対応は、文政十三年の規定による上からの河川交通の再編成に真っ向からぶつかるものであった。



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