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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      年貢諸物資の川舟輸送
 福井藩をはじめ、諸藩が徴収した年貢米は各藩の米蔵に運ばれたが、その輸送には、河川交通の便のある所では川舟が多く利用された。越前国内の諸藩の米蔵の位置をみると、福井藩は福井城下近郊の明里村をはじめ三国湊、丸岡藩では坂井郡滝谷村、鯖江藩は今立郡有定村など、多くは河川交通の便のよい所に置かれた。なかでも慶安二年に設置された福井藩の明里米蔵は足羽川沿いに位置し、約三〇〇〇坪の敷地に三四棟の米蔵が立ち並び、約六万俵の米が収納可能であった(『福井藩史話』)。このほか藩によっては、三国湊の商人の町蔵を借りて年貢米の保管に当たった。
 年貢米の川下げについて、幕府領丹生郡天王村を例にみてみよう。宝暦十一年(一七六一)の村明細帳によれば、約二〇町(二・一八キロメートル)東の乙坂村地内の天王川岸まで運び、そこから三国湊までの一一里(約四四キロメートル)を川舟により輸送した。この輸送費は、五里までは農民の負担とされ、残る分の運賃が下付された(内藤庄左衛門家文書)。その運賃は、年貢皆済状によれば、米一〇〇石を一里輸送するのに、米二斗一升五勺二才と銀一匁五分の割合で計算された。なお、年貢米の川下げのさいに用水の堰などが川筋にある場合には、通舟の時期を限定したり用水堰の損料を支払い、村々に迷惑が及ばないよう十分な注意を必要とした(千秋家文書、『清水町史』上巻)。
写真149 米の舟積場面(「福井江戸往還図屏風」)

写真149 米の舟積場面(「福井江戸往還図屏風」)




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