福井藩では「御舟方」が河川や川舟に関する取締りに当たった。「御舟方役所」は福井城下の足羽川沿いの御舟町にあり、水主頭が配下の水主組を指揮して、川舟を統制したほか、藩主が乗る御座舟を預り、御成りや川猟の時にはその舟を用意した。また、禁漁に指定した留川の取締りも行った。
越前の諸河川が九頭竜川にまとまり、日本海に注ぐ河口の右岸に位置する三国湊は、海上交通と河川交通の結節点であった。福井城下の大橋下からは足羽川・日野川・九頭竜川を経て、舟路で六里一二町一三間の距離がある(「越前地理便覧」)。元禄十二年には川舟三五艘があり、内訳は丸役(本役)が二三艘、半役が五艘、小半役が七艘であった。その後、幕末には川舟二九艘、同半役五艘、同小半役一〇艘と推移した。このほか水役舟三二艘と道(胴)舟六艘があったという。川舟持のなかからは川舟庄屋と半役川舟庄屋が各一人立てられている(『三国町史料』町内記録)。なお三国湊では、川舟は海上輸送の廻船に年貢米など荷物を積み込むための艀の役割も果たしていた(重森邦夫家文書)。
福井城下の南西、日野川と足羽川の合流点付近に位置する安居には、大渡と小渡の二つの渡場があり、大渡は足羽郡角折村、小渡は東下野村の枝村であったが、合わせて安居村とも称された。正徳四年(一七一四)に福井藩から出された三国沖の口締りに関する書付には「安居両渡其外川筋之村々川舟持共」の名がみえ、安居は代表的な川舟持の基地とみなされていた(「家譜」)。寛保元年(一七四一)には一四艘の川舟があり、舟庄屋も立てられている(重森邦夫家文書)。なお、福井城下近くの足羽山一帯で採掘された笏谷石は日本海沿岸各地に運ばれたが、安居川舟持は足羽川の河岸場から三国湊までの輸送を独占していた(布目屋三左衛門家文書)。 |