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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      川舟数と規模
 福井藩では「御舟方」が河川や川舟に関する取締りに当たった。「御舟方役所」は福井城下の足羽川沿いの御舟町にあり、水主頭が配下の水主組を指揮して、川舟を統制したほか、藩主が乗る御座舟を預り、御成りや川猟の時にはその舟を用意した。また、禁漁に指定した留川の取締りも行った。
 越前の諸河川が九頭竜川にまとまり、日本海に注ぐ河口の右岸に位置する三国湊は、海上交通と河川交通の結節点であった。福井城下の大橋下からは足羽川・日野川・九頭竜川を経て、舟路で六里一二町一三間の距離がある(「越前地理便覧」)。元禄十二年には川舟三五艘があり、内訳は丸役(本役)が二三艘、半役が五艘、小半役が七艘であった。その後、幕末には川舟二九艘、同半役五艘、同小半役一〇艘と推移した。このほか水役舟三二艘と道(胴)舟六艘があったという。川舟持のなかからは川舟庄屋と半役川舟庄屋が各一人立てられている(『三国町史料』町内記録)。なお三国湊では、川舟は海上輸送の廻船に年貢米など荷物を積み込むための艀の役割も果たしていた(重森邦夫家文書)。
 福井城下の南西、日野川と足羽川の合流点付近に位置する安居には、大渡と小渡の二つの渡場があり、大渡は足羽郡角折村、小渡は東下野村の枝村であったが、合わせて安居村とも称された。正徳四年(一七一四)に福井藩から出された三国沖の口締りに関する書付には「安居両渡其外川筋之村々川舟持共」の名がみえ、安居は代表的な川舟持の基地とみなされていた(「家譜」)。寛保元年(一七四一)には一四艘の川舟があり、舟庄屋も立てられている(重森邦夫家文書)。なお、福井城下近くの足羽山一帯で採掘された笏谷石は日本海沿岸各地に運ばれたが、安居川舟持は足羽川の河岸場から三国湊までの輸送を独占していた(布目屋三左衛門家文書)。
写真150 笏谷石の舟積図

写真150 笏谷石の舟積図

 日野川と北陸道とが交差する水陸交通の拠点である白鬼女は、宿場である今立郡上鯖江村の枝村であり、渡場としても栄えた。嘉永四年(一八五一)には、半役舟一五艘、小半役舟五艘の計二〇艘分の船座が設けられていた。明治初年には、戸数一一五軒のうち、川舟持一一人、船稼ぎ一九人がおり、そのほかに水陸の積替えのための荷物稼ぎ一八人、日雇稼ぎ五一人がいた(舟津五丁目区有文書 資5)。
 小浜では、近世初期に三〇余艘の川舟が小浜・熊川間を結んでいた(『拾椎雑話』)。元禄年中には、荷物一二駄分(五〇〇余貫)を積んだ川舟が就航しており、これには船頭、棹さしと水主舟曵き三人、計五人が乗り組んでいた(志水家文書)。その後、西廻海運の発展にともなう輸送荷物の減少などで、正徳年中には川舟輸送は中断している(『拾椎雑話』)。
 次に、川舟の大きさはどのくらいであったのであろうか。先述したように川舟は規模に応じて丸役と半役、小半役に区別されていたが、三国湊を例にみると、丸役の川舟では一〇〇俵積、半役は八〇俵積、小半役は七〇俵積であった(重森邦夫家文書)。寛政三年(一七九一)に福井藩の明里米蔵から三国米蔵まで、米一〇〇俵を積んだ三国湊の川舟七艘のうち二艘が難船しているが、この船は丸役の舟であろう。なお、使用された川舟の種類として伝馬舟、平田舟の名がみえ、また胴舟(胴張舟)と呼ばれるものも河川交通に従事していたようであるが、構造の詳細な差異は不明である(「三国湊御用留帳」)。



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