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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      川舟に関する「御定法」
 北国筋を輸送される商人荷物は、北陸道を陸上輸送されるのが普通であったが、慶安二年(一六四九)と明暦二年(一六五六)の二度にわたり、金津から板取までの一八宿が三国湊を相手に訴訟を起している(久末重松家文書 資4)。これは商人荷物が河川を利用して三国湊から海上輸送されることに対して、陸上輸送に当たる宿々が荷物輸送についての特権を申し出て争論となったものであろう。
 寛文四年八月に福井藩は「御舟方御定法」を制定した(森藤右衛門家文書)。それは、御用舟の役目を果たし、役銀を納めた川舟には極印  を押すので、自分荷物はもちろん、商人荷物の運賃積も許可するという内容であった。しかし、ここでも馬借など陸上輸送業者との荷物の奪い合いを避ける取決めは含まれていなかった。
 貞享三年(一六八六)加賀金沢から上方へ向かう外字荷物が、北陸道の途中、金津宿から三国湊を経て、川舟で福井大橋(九十九橋)下に陸揚げされたことがあった。このため荷物が通らなかった長崎・舟橋宿から三国湊の商人に対して訴訟が起され、郡奉行から次のように裁許が下された(森藤右衛門家文書)。(1)宿々を通すべき荷物を川舟に積み込む行為は禁止する。(2)越前国内に向け、海上から三国湊に到着した荷物を川舟に積み込むこと、三国湊まで陸上輸送された荷物を海上から敦賀へ廻送することは認める。(3)順風がないため陸上輸送に切り換えたい場合には届け出たうえ、三国湊から長崎宿へ出すこと。(4)越前国内から他国へ出す商荷物は川舟で三国湊へ下し、それから海上を廻送するのは認める、などである。
 さらに、今立で生産された奉書紙の京への輸送をめぐる争論を契機として、元禄十三年に福井藩寺社町奉行から商荷物の川舟輸送に関する裁定が下された(山内治郎左衛門家文書 資6)。その内容は川舟で商荷物を舟廻しすれば、商人たちにとっては都合がよいかもしれないが、それでは城下町中や往還の宿々の問屋や馬借たちが衰微してしまうので、米・雑穀以外を川舟で舟廻しすることを禁止するというものであった。
 こうした裁許や裁定は、陸上輸送業者と川舟業者とが荷物輸送で共存共栄するための「御定法」となった(上鯖江区有文書、森藤右衛門家文書)。



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