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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      近世河川交通の成立
 慶長六年(一六〇一)の結城秀康の越前入国にともない、越前国内でも交通路の整備が行われたが、それは主として陸上交通、とくに宿駅の整備という形で進められた。一方、河川交通に対して、当初どのように整備統制が進められたかは詳らかでない。
 若狭では、京極氏の小浜入国後まもなく、京都から来た七左衛門が小浜より熊川までの川筋の普請を行い、舟の上下が可能になった(『拾椎雑話』)。寛永八年(一六三一)、七左衛門を継いだ九右衛門に対して、時の藩主京極忠高から出された諸役免許状には、先年の川普請により、小浜・熊川間の舟の通路が完成したことが書かれている(熊川区有文書 資9)。
 敦賀では、古来琵琶湖と結ぶ運河を開削する動きがあり、江戸時代に入っても、西廻航路の利用が本格化する頃の寛文九年(一六六九)および翌十年に計画されている。それは敦賀から疋田、あるいは深坂まで、笙ノ川などを利用した川舟輸送と陸上輸送を組み合わせたものであった。その後も元禄九年(一六九六)・天明五年(一七八五)など再三にわたり計画がなされ、文化期(一八〇四〜一八)・安政期(一八五四〜六〇)には実用に供されたが、長くは続かなかった(『敦賀市史』通史編上巻)。



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