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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    三 宿駅の負担と助郷
      助郷
 「宿人馬勤高其外之義ニ付書上」(森藤右衛門家文書)に、「当宿において加宿と申す所は御座なく候、ただし大助郷・常助郷と申す儀も御座なく候」とある。すなわち北陸道には東海道以下の五街道の宿場に付属したような、高役が免除されて宿場人馬の不足を補充することを義務付けられた定助郷や、臨時の大通行などにさいして助人足・助馬の負担が義務付けられた大助郷といった制度的に確立されたものはなかった。
 しかしながら、文化十一年の加賀藩主通行のさいに福井藩領の村々から不足分の人馬を大量に徴発したり、通行の準備に掃除要員として近隣の四か村から一〇二人を鯖波宿が賃銭払いで雇ったような例がある(石倉家文書)。明治元年(一八六八)に駅法の改正によって新規に助郷村が決められ、細呂木宿には坂井郡の六〇か村が割り当てられた(「助郷村見合印鑑留」森藤右衛門家文書)。この年の五月に駅逓司布告が出され、各宿駅に助郷がつけられたためである。鳥羽伏見の戦い後、東征軍が発せられると、全国一様に助郷の組替えが行われたなかでの達しによるものであった。



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