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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    三 宿駅の負担と助郷
      宿駅の変化
 街道の通行量の増大にともなって、江戸時代中期以降になると、宿場には種々の問題が生じてきた。間道を運ぶ抜荷・抜人に関する紛争、川舟業者との争い、宿益となる商人荷物を崩して運ぶ担荷業者との争いなどである。宿場の収入の第一となるべき商人荷物の流通が次第に河川交通に奪われていったのもその一つであった。
写真148 栃ノ木峠図(『越前国名蹟考』

写真148 栃ノ木峠図(『越前国名蹟考』

 例えば、宝暦十三年(一七六三)三月、金沢の荷主布屋又兵衛が上方へ送る笠荷物三六本を、金津から川舟に積んで竹田川より三国湊へ廻し、日野川を上って白鬼女へ荷揚げした。長崎宿の馬借と問屋は、これに対して、利益となる商人荷物が来なくなることを心配して、金津問屋と三国川舟を訴えている。間道荷物の取締りについては、天保二年(一八三一)の秋、上方から送られてきた商人荷物を福井表まで来たところで、福井馬借と越中井波の荷主が馴合いで、足羽川を舟積みで三国へ下し、三国の人足の手によって小牧という間道へ運び出した。それより北方浦の者に手舟で吉崎浦を経て加賀大聖寺へ届けたという記録がある。とくに、三国から大聖寺へ抜ける間道として、横岑・小牧の両道があり、嘉永三年(一八五〇)六月に、細呂木宿は商人荷物の運送を禁じる制札を藩に請求した。この結果、その途中にある吉崎浦・北方浦・蓮ケ浦村・加戸村・三国薬師道に高札が立てられた(森藤右衛門家文書)。
 特殊なものとしては公家や有力寺院の荷物であることを示す絵符を、商人等が借り受けて御定賃銭で運送させようとしたことから生じた争いもある。文化六年、細呂木宿から板取宿まですべての問屋たちは奉行所に次のように訴えた。公家や武家家中の者が絵符帳面で多量の荷物を運送するため各宿場とも非常に難儀している。取締りの強化をお願いしても、町在商人の貸絵符のみの取締りに終わり、結局は尻抜けになってしまっている。問屋場の混雑・難渋はこのうえなく、このままでは宿役御用にも差しつかえるので厳重な取締りをお願いしたい(森藤右衛門家文書)。
 また、幕末になって人や物資の往来が激しくなると、荷物を担って運ぶ担荷業者が大聖寺に出現した。彼等は絹荷物・反物・紙類などを福井まで背負って送り、戻る時は上方よりやってきた荷物を崩して小分けにして運んだ。この担荷業者により福井・大聖寺間の宿場の利益は次第に奪われていった(森藤右衛門家文書)。



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