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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    三 宿駅の負担と助郷
      宿場内での伝馬役の負担
 今宿宿についてみると、伝馬役は高持百姓三〇余人が家割で勤めてきた。しかし、農民層の分解で高持百姓が減少し、そのうえ大高持と小高持の差が開くにつれて、小高持は負担の家割を不服として高割を要求し、大前と小前の争いが起った。享保五年(一七二〇)に高持一二人のうち、二五石以下の者七人が負担の高割を藩に願い出て高割が実現した。しかしその後も大前と小前の対立は続き、寛政五年(一七九三)十二月に村法定書がつくられ、三分の二が高割、三分の一が家割となって和解した(池端岡右衛門家文書)。
 規定数以上の伝馬人足の宿場と郷村の割方については、宝永元年(一七〇四)の「越前十八宿馬借役聞合訳書」(宮川源右ヱ門家文書)に、福井藩主が通行の場合は宿役に六分六厘七毛、郷助に三分三厘三毛と定められている。つまり、越前国内の五里継伝馬に必要な人馬の割方は、福井藩主の参勤・帰国のさいは宿場で三分の二を負担し、残りの三分の一は川北領・下領・中領・上領の「四郡割」の高割で負担したのである。また、越前国内の他藩主や他国の大名が通行する時の人馬提供の要請には、逆に宿役に三分三厘三毛、郷助に六分六厘七毛の割方で対応した。文化十一年の加賀藩主帰国には御触人数のほかに、前田家へ敬意を表す御馳走人馬を提供しており、人足二〇〇人・馬一〇匹が無賃として提供された。
 これらの大名通行の人馬継立てには臨時の人足が必要で、次のような役があった。休憩・宿泊地や継立て人馬数を予告する先触、途中まで派遣しておいて先触どおりに到着するかどうかを知らせる遠見、一行の先導をして道案内をする杖払い、毎夜家別に勤める火の番、そのほかに通行する道路を修復し清掃をする往還普請・掃除番などの夫役にかり出されたのである。
 その具体的な例は、文化十一年四月、前田斉広が細呂木宿に中休みしたさいにみることができる。これには、本陣関係で諸職人が二五人、掃除人足が四五人、砂持が三五人、松明持が三七人、金津への遠見の者二五人など、合計四二八人の人足を動員して迎えたという。また、その接待のために調達された準備物は、茶碗・盆・重箱・火鉢・屏風・葭簀・茶釜・飼葉などで、そのための経費は銀三九九匁余と多額であった(「松平加賀守様御小休御本陣寄物帳」森藤右衛門家文書)。



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