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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    三 宿駅の負担と助郷
      加賀前田氏の通行
 加賀の前田氏の参勤は、北方へ行くのが普通であったが、越前北陸道を経由して行った場合もあった。藩主の通行にさいし、宿場と近隣の郷村はどのように人馬の負担をしたかを、文化十一年(一八一四)の「加賀藩主帰国ニ付人馬郡割覚」(石倉家文書 資6)からみてみることにする。同年三月に藩主前田斉広が参勤を終えて、江戸から帰国した。この時の一行は供廻りが二七〇〇余人・七〇匹といった大規模なものであった。十四日には福井藩の役人より人馬役の割符が国中の宿場や郷村に届けられた。
写真147 前田斉広通行時の人馬割

写真147 前田斉広通行時の人馬割

 これによると斉広の一行は、江戸表を三月十六日に出立し東海道を通って三十日に越前に入り、今庄宿で宿泊、四月朔日府中町で宿泊、二日金津宿で宿泊といった日程で三日には加賀へ抜ける予定であった。今庄宿へ寄せ集められたのは人足四〇〇人・馬二〇〇匹で、府中まで継ぎ立てる要員として各地から詰めていなければならなかった。その内訳は、上領三九匹、中領九匹、下領六匹、川北領一六匹で、惣郷より一三〇匹であった。一行の朝は「六ツ半出発」とあることから、宿役を勤めていた宿場の人々や馬だけでなく、田畑の耕作に専念する郷村の人々も作馬を伴って、とくに川北領の場合は夜中に出かけなければならなかった。



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