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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    三 宿駅の負担と助郷
      大名通行時の人馬負担
 近世宿場の重要な職務は公用の荷物や旅客の輸送で、宿駅から宿駅へ継ぎ送るのが原則であった。それは馬の背や人の力で行われ、人馬を準備して継ぎ送られた。この公用に向けられた人馬の継立てが宿場に課せられた第一の負担で、とくに人馬の動員が多く必要になったのは大名の参勤交代の時であった。
 明和元年(一七六四)を例にとると、福井藩上領の宿場に伝馬役が割符されたのは、福井藩松平重富の帰国のほか、鯖江藩間部詮央の参勤、大野藩土井利貞の大坂加番帰り、勝山藩小笠原信房の参勤、丸岡藩有馬允純の帰国にさいしてである。そのさいに上領の上鯖江宿から板取・二ツ屋宿へ五八五匹の役馬が命じられた。このうち、鯖波宿は割符された三五匹のうち二二匹を直勤として馬を出し、勤不足の分を銀八八匁余で支払っている。同じく、湯尾村は一〇〇匹のうち六六匹を直勤として、不足の三四匹分の銀二三〇匁余を藩の上領郡役所に納めている(宮川源右ヱ門家文書)。
 幕末になると不安定な世情を反映して公用人馬の継立てが多くなる。慶応元年(一八六五)の金津宿の状況を、「立辻人足諸入用諸払書上帳」(吉川充雄家文書)で見てみると、公用での継立て人足数三万三三一二人で、無賃が六〇六二人、上下平均一人五五文の御定賃銭による継立て人足が二万七二五〇人であった。これがわずか二年後の慶応三年には、公用人足数四万〇五三五人で、その内訳は、無賃八三五〇人・御定賃銭受取方三万二一八五人と人馬継立ての往来が激しくなった。



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