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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    二 若狭街道と西近江路
      敦賀馬借
 敦賀は北国と上方との海陸交通の結節点で、古くから馬借が発達したところである。馬の背に俵物などの諸荷物を付けて運搬する馬借には伝馬の課役があるため、座を結成して諸荷物を独占的に運送する特権が与えられていた。馬借の補助的な役割を担うものに平馬と背持があり、平馬は臨時に課役に応じた馬持であった。背持は人の肩に荷を背負って運ぶもので、それには町背持と在郷背持があった(「指掌録」)。敦賀の町馬借は寛文七年に一七二匹の馬を持っていた。馬借だけで運びきれない時には荷主は問屋を通じて馬借頭に届け出て、相対駄賃で平馬や背持を雇い切荷をして、馬借頭より受け取った「切札」を彼等に渡して荷物を運ぶことができた。問屋は「切札」の数に応じた二割の「切銭」を馬借頭に納め、その銭は馬借座中に分配される仕組みであった(「寛文雑記」)。馬借座には敦賀の町馬借のほかに疋田に在郷馬借二〇〇匹があり、ともに敦賀町奉行配下の足軽組頭が管轄した。馬借は稼ぎの範囲が定められて、敦賀町より山中・新道野への上り荷物は、伝馬・商人荷物を問わずすべて敦賀の町馬借の積荷とされた。また、駄口・山中・海津からの下り荷は敦賀馬借が一か月のうち二〇日間を、疋田馬借が一〇日間を担当する定めであった(同前)。
 また、「疋田記」(『敦賀郡誌』)によると敦賀からの上り荷は、七里半越の場合は山中で、新道野越の場合は新道野で継ぎ立て、近江へは山中から海津、新道野から塩津へと継ぎ立てた。一方、敦賀への下り荷は海津より駄口、駄口より敦賀へと継いだ。



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