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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    二 若狭街道と西近江路
      西近江への路
 古来敦賀は北国と畿内を結ぶ重要な地であったので、近江から敦賀を経て越前南条郡へ至る道が開けていた。著名なものは西近江路であり、大津から海津を経て山中峠を越えて越前に入り、山中宿・駄口宿・追分・疋田宿を経て、道口から谷口を通り、葉原宿・新保宿を経て、木ノ芽峠を越え南条郡今庄宿で北陸道に合流した。この街道の途中の道口からは敦賀へ向かう道が分かれていた。敦賀から海津までの距離が七里半であったため、敦賀・海津間は七里半街道(七里半越)とも呼ばれた。また「馬足道」とも呼ばれ、敦賀町奉行から村々に馬足数に応じて課せられた馬足役で維持された。馬足役は、敦賀郡内と三方郡山東郷から徴発される人夫と、道橋普請のための材木・鉄物類の資材からなっていた(「敦賀郷方覚書」)。寛文三年の敦賀郡内の馬数は一二九五匹で、そのうち馬借馬三七二匹、牛三三八匹であった(「寛文雑記」)。
写真146 木ノ芽峠

写真146 木ノ芽峠

 このほか、敦賀から北へ向かう道には、海岸沿いに杉津や大比田を通って南条郡河野浦に至る道もあった。一方、敦賀と近江を結ぶ道には、西近江路のほかに、追分から深坂峠を越えて塩津に至る深坂越や、疋田から麻生口・新道野を経て近江塩津へ至る近世初頭に開かれた新道野越があった。また麻生口の手前から東に向かい、刀根を経て久々坂峠を越えて柳ケ瀬で北陸道と合流する刀根越、谷口から東に向かい池河内から長野尾峠を越え、中河内で北陸道と合流する長野尾越などもあった。これらのうち、新道野越は最も傾斜が緩く冬期の積雪も比較的少なかったので、塩津への道は深坂越よりもよく利用されるようになった。承応三年(一六五四)三月には、小浜藩が敦賀から山中までの道作りを命じ、さらに新道野越の道の整備も同時に指示して、西近江への道路整備を行っている(「酒井忠勝書下」)。
 慶長年間の国絵図によれば、新道野越・刀根越・長野尾越は細い朱線で描かれているが、西近江路だけは太い朱線で記されており、重要であったことがうかがえる(「越前国図」東京大学総合図書館文書)。下って、正保二年の「若狭敦賀之絵図」(酒井家文書)は、小浜藩によって作成されたため、小浜と敦賀を結び木ノ芽峠に至る若狭街道だけを太く描き、西近江路などは細い朱線で描いている。また、同図には、道口・刀根・新保・大比田に番所(女留番所)の記載もある。新道野には慶長期の絵図に「新道茶屋」、正保二年の絵図に「新道野茶屋」が記されており、慶長年間にはすでに開かれていたことが推測される。一方、深坂越は両絵図ともに記されておらず、この頃には新道野越が重要になっていたこともわかる。



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