目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    二 若狭街道と西近江路
      馬借と駄賃
 北国や西国から小浜に入津した諸荷物を、熊川まで運んだのは若狭の馬借であり、熊川から今津までは近江の馬借がそれに当たった。運賃である駄賃は、小浜から熊川までは藩の米であっても商人米であっても、享和三年(一八〇三)には四斗俵三俵につき米六升であった。その他、油二樽につき七升、桐油の粕五箇につき四升五合、四十物一駄につき八升が基準とされた(津田周三家文書)。藩の米については、四斗俵一俵につき熊川から木津までの駄賃は二升五勺、木津から大津までの船賃は三合四勺八才であった(『稚狭考』)。
 小浜から熊川へ運ばれる荷物の取扱いについては、寛文九年(一六六九)の高札に次のように定められている(荻野八左衛門家文書 資9)。第一条には、荷物を小浜の問屋から受け取った馬借は、荷物をぬらさぬように運び熊川の問屋に渡すこと、また米・大豆などの俵物については小浜の問屋は不正のないよう荷物の重さをはかり、馬借の村名を改めて目切手に記して馬借に渡すとある。第二条には、道中で馬に餌を与える時に荷物を家の中に入れてはならないとしている。第三条では、熊川で問屋に荷物を渡すまでは街道以外の脇道を歩いてはならず、また馬借の方で問屋を選り好みしてはならないとしている。第四条では、荷物のやり取りや手回しが悪いといって問屋に対し馬借たちが悪口を言ってはならないと注意を促している。第五条では、小浜・熊川の町中において馬借が馬に乗ることを禁じている。このように熊川宿は商品流通の拠点であり、小浜藩から派遣された熊川奉行の管掌のもとに業務が遂行されていた。
 熊川の馬借がどれほどの荷を運んだかについては、明確な記録は少ないが、享保八年正月から六か月間の「沓代改帳」(熊川区有文書)には、駄数一万八六五九駄二分と記されている。



目次へ  前ページへ  次ページへ