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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    二 若狭街道と西近江路
      熊川宿
 若狭国を与えられた浅野長吉(長政)は、熊川村を交通の要衝として重視し、天正十七年(一五八九)正月に諸役免除の判物を与えている。また同年の「熊川年寄中覚」の中で、近郷から人を集め家数を増やすように命じている(熊川区有文書 資9)。
 慶長六年(一六〇一)九月、小浜藩主京極高次は「従高嶋在々熊川へ入馬之事」(熊川区有文書 資9)という、次のような掟書を熊川と近江高島郡の馬方惣中に出している。第一条は駄賃の規定である。藩の米二石を運ぶ場合の輸送につき馬借が受けとる駄賃は、一匹は一石について六升ずつ、一匹は一石についてその時の相場次第であるとしている。第二条では、奉行が馬借連中にとやかく申した場合は、小浜の藩庁へ直接注進するように命じている。第三条では、家中以下切手のない者に馬を出してはいけないと命じている。
 その後熊川は、宿場町として栄え、「元禄年中まても熊川街道の馬四百疋計り」(『稚狭考』)とある。しかし小浜への上り荷が減少しはじめた頃の(第四章第二節)、享保十一年(一七二六)の「御用日記」(熊川区有文書)には、家数二一三軒、人数一一七五人とある。問屋職は、元禄十五年(一七〇二)に、菱屋清兵衛・倉見屋又兵衛・高嶋屋勘兵衛・長浜屋次左衛門・倉見屋八左衛門・米屋与兵衛の六人であった。その後、八人になったようであり、享保四年には前記の六人のうち倉見屋又兵衛の名はみられず、菊屋忠兵衛・大津屋伊兵衛・和泉(泉)屋仁兵衛が加わっている。
写真145 熊川宿(「若狭敦賀之絵図」)

写真145 熊川宿(「若狭敦賀之絵図」)
 小浜湊に荷揚げされたものには米や大豆のほか、年によって若干の変動はあるが、干魚や塩魚である四十物、鰊や干鰯などの肥物があり、熊川宿を経て今津へ出され、大津から京都へ、琵琶湖よりまた湖上を湖東の諸地域へと運ばれた。宝永元年(一七〇四)の「荒物之覚」(市場仲買文書)によれば、鰊や干鰯のほかに鯖・外字・鱈・鰤などの魚荷が小浜の問屋や仲買によって取引きされていたことがうかがえる。熊川宿を通過した荷駄のおもなものは四十物類であったが、そのほか小浜藩と宮津・田辺・峰山など近隣諸藩の蔵米もあった。また酒井氏は熊川に土蔵一二棟を建て、蔵奉行による支配のもとに領内の七〇か村から三万俵の年貢米を収納した(熊川区有文書)。
 なお、明治九年(一八七六)における熊川の職業構成は、荷負稼業六五戸、商業四〇戸、農業三四戸、諸職工二一戸、山外字一八戸、旅篭屋一四戸であった(『若狭遠敷郡誌』)。



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