若狭国を与えられた浅野長吉(長政)は、熊川村を交通の要衝として重視し、天正十七年(一五八九)正月に諸役免除の判物を与えている。また同年の「熊川年寄中覚」の中で、近郷から人を集め家数を増やすように命じている(熊川区有文書 資9)。
慶長六年(一六〇一)九月、小浜藩主京極高次は「従高嶋在々熊川へ入馬之事」(熊川区有文書 資9)という、次のような掟書を熊川と近江高島郡の馬方惣中に出している。第一条は駄賃の規定である。藩の米二石を運ぶ場合の輸送につき馬借が受けとる駄賃は、一匹は一石について六升ずつ、一匹は一石についてその時の相場次第であるとしている。第二条では、奉行が馬借連中にとやかく申した場合は、小浜の藩庁へ直接注進するように命じている。第三条では、家中以下切手のない者に馬を出してはいけないと命じている。
その後熊川は、宿場町として栄え、「元禄年中まても熊川街道の馬四百疋計り」(『稚狭考』)とある。しかし小浜への上り荷が減少しはじめた頃の(第四章第二節)、享保十一年(一七二六)の「御用日記」(熊川区有文書)には、家数二一三軒、人数一一七五人とある。問屋職は、元禄十五年(一七〇二)に、菱屋清兵衛・倉見屋又兵衛・高嶋屋勘兵衛・長浜屋次左衛門・倉見屋八左衛門・米屋与兵衛の六人であった。その後、八人になったようであり、享保四年には前記の六人のうち倉見屋又兵衛の名はみられず、菊屋忠兵衛・大津屋伊兵衛・和泉(泉)屋仁兵衛が加わっている。 |