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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    二 若狭街道と西近江路
      若狭の街道
 若狭のおもな街道には、まず越前敦賀から若狭を横断して丹後田辺・宮津に至る街道があげられる。これは所により若狭道とか敦賀道・丹後道などと呼ばれた。その経路は、敦賀から関峠を越えて三方郡に入り、椿峠を越えて茶屋(陣屋)があり、町奉行が置かれた佐柿を通り、倉見峠を経て遠敷郡に入る。続いて日笠で後述する熊川街道と合流し、小浜城下を経て、勢坂を越えて大飯郡に入り、茶屋が置かれた和田、町奉行が置かれた高浜、女留番所が置かれた蒜畠を通り、吉坂峠を経て丹後に至るものであった。正保期(一六四四〜四八)以前のものと思われる絵図には、熊川とともに、佐柿に「町屋弐百間程」、遠敷郡和田に「家数五拾間程」、高浜に「町屋弐百間程、其外猟師小家百五拾間程」という注記があり(「若狭国図」東京大学総合図書館文書)、この頃には街道として整備されていたと思われる。
図24 若狭の街道

図24 若狭の街道
注) 正保2年「若狭敦賀之絵図」(酒井家文書)により作成.

 次に、この街道とともに重要なものに、小浜と近江今津を結ぶ街道があった。これは、所により熊川街道とか若狭街道とも呼ばれたが、小浜・今津間の距離をとって九里半越(九里半街道)とも呼ばれた。この街道の最大の宿場が熊川であり、先の正保期以前の国絵図に「町屋百六拾間程」と注記されている。
 このほかに、おもに塩鯖を京都へ運んだ、いわゆる鯖街道と呼ばれる道が数本あった。おもなものは、(1)「針畑越」と呼ばれ、小浜から遠敷、上根来を通り、針畑峠で国境を越えて大原から京都へ入る道。(2)小浜から南川をさかのぼり、堂本から知井坂で国境を越え、鷹峯から京都へ入る道。(3)小浜から南川をさかのぼり、堂本で分岐し虫鹿野を経て杉尾峠(生杉越)で国境を越えて、鞍馬から京都へ入る道。(4)高浜から福谷坂峠・石山坂峠を経て堀越峠で国境を越え、(3)と合流する道、などであった。また、熊川街道から保坂で分かれて、朽木谷を通り、(1)と合流する道もよく利用された。なお、図24に正保国絵図である「若狭敦賀之絵図」(酒井家文書)に記されている街道をすべて図示した。



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