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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    一 北陸道と宿場
      宿場の機構
 宿場は多くの場合、一つの町や村からなりたっており、行政組織としての町や村の仕事と、運輸や休泊に関する宿場の仕事と二つが重複していた。このため、宿場は役馬をはじめ大名が通行するさいに行う橋普請など交通関係の諸役を勤める代りに、村高の三分の一から半分を「往還元無諸役」として夫米・糠藁代などが免除された。人馬の継立てや休泊施設の規模が小さい越前北陸道の宿場は、村役人の庄屋や長百姓が宿役人である問屋を兼務した場合が多かった。すなわち、一般的に村役人は同時に宿役人というのが宿場の特色であった。
 天保十二年の記録(「御上様上ケ帳留」石倉家文書)から、当時の鯖波宿の規模を知ることができる。それによると、家数三四軒でこのうち高持一六軒・雑家一八軒、人数は一五〇人であった。商売を営む者は、鯖波村で最大の高持百姓(八八石八斗余)である本陣の石倉家のほか六軒であった。村役人・宿問屋と酒造・荒物を兼ねた覚兵衛(三四石三斗余)と紺屋職の甚兵衛(四一石七斗余)を除けば、ほとんどが小高持か無高の雑家で、小間物(米小売)一・旅篭二・木賃小宿一とあり、このほかに馬借四人と川渡守一人がいた。翌十三年には、商人は酒造(荒物)一・小間物(米小売)一・紺屋一・小商人三・旅篭屋三・木賃宿二・茶屋店二の合計一三軒となった。

表121 公定人馬賃銭

表121  公定人馬賃銭

 鯖波宿では石倉猪右衛門が本陣を勤めたが、問屋役も兼帯したように宿役人の権限も特定の有力者に集中していた。鯖波宿は、天明三年(一七八三)に問屋の一人がその職権を濫用したとしてそれまでの世襲を改め、高持百姓のなかより六人から八人に問屋株をもたせた。問屋株をもった百姓は半月交代で問屋職を勤めることになり、月の前半を勤める上番問屋と月の後半を勤める下番問屋の二つのグループに分かれたが、問屋と宿場の人々との対立は続いた。その後の福井藩奉行所宛の「惣馬借・惣足役願上書」(石倉家文書)によれば、「当宿の問屋定を破り、商人荷物成たけ問屋方へ取り申し候て、村馬借どもへは伝馬役のみ相勤め」さすとある。つまり、問屋は利益のある商人荷物の独占を図り、宿場の他の人々には無賃の公用伝馬を押しつけようとした。その年の商人荷物二五〇〇駄のうち一二〇五駄を問屋がかかえこみ、他を一二人の馬借に分配したということであった。
 金津宿は北陸道が竹田川と交差する位置にあり、北は細呂木宿へ南は長崎宿に通ずる。また三国湊との往来もあった。近世を通じて南金津・北金津両宿に一人ずつの宿問屋がおり、三〇匹の役馬が義務付けられていた。
写真144 金津宿図(『越前国名蹟考』)

写真144 金津宿図(『越前国名蹟考』)

 また、北金津町には、寛政元年(一七八九)の「三金津等明細帳」(吉川充雄家文書 資4)によると、本陣・問屋のほかに旅篭屋五五軒・揚屋三〇軒・桶屋六軒・遊女持六軒・鍛冶屋三軒・油屋六軒・紺屋三軒、そのほかに酒屋・豆腐屋・大工・毛抜屋などがあったことが知られる。
 明治元年(一八六八)の金津宿は、北金津町と南金津村の問屋・年寄六人が宿役人で、一月の上半分を北金津町が、下半分を南金津村が問屋として荷物の付送りを担当した。年寄は問屋場へ詰めて貫目改と人馬の継立てが遅滞なく行われるように処理し、問屋場帳付と馬指が雇用されていた。帳付は日々問屋場へ出勤して、人馬の出入を明確に記帳する役である。馬指は人馬の指引きをする役で、問屋場において直接に馬士や人足はもとより、郷村からの人馬に対する荷物の差配をした。どこ行きの荷物は何村の誰によって運ばれたということがいちいち記帳され、運送する人足に対しては札を渡して後日に賃銭の清算を行うという方法がとられた。そして、日々の人馬の継立て数や行先が集計されて「日〆帳」が作られた。
 金津宿の問屋場に必要な年間の費用は、慶応元年(一八六五)で金二二八両で、その内訳は、問屋役の給料、年寄や下代への給金、蝋燭・灯明・駕篭代・飼馬料などであった。その経費は、問屋を使用した時にかかる庭銭を収入源としており、この頃の商人荷物一駄の庭銭は平均三匁であった。なお商人荷物については、延享三年(一七四六)の「覚」(森藤右衛門家文書)に木綿・呉服・布・笠・紅花・蝋・菜種・鰹・蒟蒻玉・干大根・密柑・煙草・紙・家具類・茶・皮荷・金銀・鉄物・油樽・砂糖などがあったことが記されている。



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