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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    一 北陸道と宿場
      人馬の賃銭
 馬には本馬・乗懸・軽尻の別があり、本馬・乗懸は同額、軽尻はその六割から七割弱程度、人足は本馬の五割程度の運賃であった。人馬継立ての賃銭で問題になるのは、人馬の担荷の重量である。寛文元年(一六六一)には伝馬・駄賃馬の荷物は、一駄四〇貫(一五〇キログラム)と宿駅に藩からの申渡しがあった。本馬は本荷ともいわれ、馬に乗せるのは荷物だけであった。乗懸は明荷という篭を二個馬の両側に付け、その上に蒲団を敷いて人が乗るものであった。また、人だけが乗って荷物のないのは軽尻といって、人のほか五貫までの荷物を付けることが許されていた。人が乗らない場合、二〇貫までは軽尻扱いとして賃銭が低く定められた。
 このほか、人足一人持ちの荷物は五貫までとし、長持一棹は三〇貫が基準で六人掛りとし、荷物が重ければそれに応じて賃銭を出すことになっていた。そのほかでは、乗物は一挺に人足六人掛り、山駕篭が四人掛りなどの規定があった。これらの荷物の目方や賃銭の数字は、寛文六年十一月の各宿駅の高札に規定された(「福井藩伝馬駄賃定条々」宮川源右ヱ門家文書 資6)。以下に西街道湯谷(屋)村に出された条文をあげる。
  一、近年米大豆高直成故宿々令困窮之間、湯屋村・河野迄駄賃銭壱駄に付四十七文
     、乗懸ハ人足共ニ同前、荷なくして令乗ハ三十壱文、人足賃ハ廿三文、馬塚へ九
     十文、荷なしにのらハ六十文、人足賃ハ四十五文可取之事、
  一、往還之輩次馬・次人足近年甚多付而宿々令困窮之間、縦回(国)持雖為大名家中
     共に一日ニ次馬二十五疋、次人足廿五人に不可過、
  一、乗物壱丁に人足六人、山乗物ハ四人にて御定之人足賃を取可相通之事、
  一、長櫃壱棹三十貫目を可限、それより重キ荷物ハ持はこふへからす、人足壱人五貫
     目の荷積りにて三十貫目ハ人足六人、
  一、 乗懸荷物ハ五貫目迄ハ荷なしに乗る駄賃銭可為同前、それよりおもき荷物ハ本
     駄賃銭可取之事、
 文化元年(一八〇四)の「伝馬諸日記」(飯塚五右衛門家文書)によると公定賃銭は表121のようであり、継立ての種類と宿駅間の距離や上り・下りの地形の違いによって異なっていた。



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