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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    一 北陸道と宿場
      橋と一里塚
 越前を流れる最大の河川九頭竜川と、福井城下を流れる足羽川に架かる橋をみてみよう。
 北陸道と九頭竜川が交差する地点にかかる橋は、越前の浦々より出された四八艘の舟橋であった。川幅は一〇五間で、水量の増加に備え・・・て五艘の予備を確保していた(『片聾記』)。舟橋は天正年間(一五七三〜九二)に柴田勝家によって架けられたことから舟橋村が興ったといわれ、国中の武器を鋳なおして造った鎖で橋が架けられたと伝えられている(「帰鴈記」)。橋の長さは一二〇間で、鉄の大鎖一筋と藤綱二筋で四八艘をつないでいた(『越前国名蹟考』)。福井藩ではこの舟橋を管理するのに橋奉行を置き、秀康頃に四王天又兵衛がこれに当たったという(『片聾記』)。
写真143 黒竜川舟橋図(『越前国名蹟考』)

写真143 黒竜川舟橋図(『越前国名蹟考』)

 一方、足羽川に架かる大橋を九十九橋とも米橋とも呼んだ。長さは八八間で、うち北半分は板、南半分が石で造られた橋であった。橋の南半分は橋柱も板も欄干もすべて石で造られ、石橋としての大きさは他国にも例がないほどであったという(「東遊記」)。越前各方面への里程は九十九橋の北詰を起点として測定され、道路元標もここに立てられた。
 福井城下の一里塚として南は木田荒町に榎一本、北は加賀口の外荒町に左右一本ずつの榎が一里ごとの目印としてあった(『越前国名蹟考』)。なお、「福井藩役々勤務雑誌」(松平文庫)には、「一里塚は往来の左右に大きなる土饅頭の形の上へ松など植たるものなり、越前地方の一里塚甚だ少なし」とある。榎が用いられたのは、根が深く広がって塚を固めるため、塚が崩れにくいことにあったが、榎の代りに松や印木を用いる場合もあった。一里塚は旅人にとっては里程の目安、乗り賃支払いの目安となり、日ざしの強い日には木陰の休所ともなった。
 北陸道では、金津町にある千束の一里塚(県指定史跡)や坂井町下関の一里塚が、西近江路では敦賀市道ノ口の一里塚が、往時の面影をいまに伝える。



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