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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    一 北陸道と宿場
      北陸道の宿駅
 五街道以外の主要な街道を脇往還といった。このうちとくに重要視されたのは伊勢路・山陽道・佐渡路で、五街道に次いで通行量も多かった。これらに次ぐ脇往還に北国路があり、天保元年(一八三〇)の「覚」(森藤右衛門家文書)にいう、「江州米原より南部津軽まで北陸道」とあるのがこれに相当する。越前を通る北陸道は、近江柳ケ瀬から栃ノ木峠を越え、板取宿から細呂木宿を経て加賀に至る。
 初代福井藩主である結城秀康は慶長七年三月、北陸道の宿駅に伝馬定を出した。今庄二ツ屋宿に発せられた伝馬人足定書には次のようにある(竹内嘉右衛門家文書 資6)。
写真142 結城秀康伝馬人足定書

写真142 結城秀康伝馬人足定書

 (1)伝馬・人足については黒印がある場合、指示された数を間違いなく「町次」に立て、
   少しでも遅れることは許さない。
 (2)黒印なく伝馬・人足を出すように命じるような不届きな者がいたら、「地下中」総出で
   その者を取り押え北庄へ告げる。
 (3)いかなる場合でも「伝馬人足之切手」が到来したならば、黒印の日付をよく改めたう
   えで、間違いなければ継立ててよいが、そのほかはいっさい伝馬・人足を出してはな
   らない。上記の条目にそむいた者には厳正な処分をする。
 秀康の伝馬定は、舟橋宿と道口宿に宛てたものが現在確認されており、越前における北陸道の主要な宿駅はこの頃に成立したと考えられる。なお箇条数に多少はあるが、寛永元年に三代松平忠昌が、承応三年(一六五四)には光通が同じような伝馬定を出している(竹内嘉右衛門家文書 資6)。
 越前国内の北陸道は、幅三間(約五・四メートル)と定められ一五の宿駅が置かれた。一か月のうち二〇日間を長崎宿と交代する舟寄宿だけが貞享三年(一六八六)以降幕府領で、他はすべて福井藩領であった。「十八宿役馬の寄宿分聞合の次第」(宮川源右ヱ門家文書)によると、このほかに、西街道(府中町から河野浦まで)に三つの宿駅がみえるが、天保四年の越前北陸道の宿駅と役馬、通過する村落は図23のようになっている。なお、図23に示した道は貞享二年の「越前国絵図」(松平文庫)に記されているものである。
図23  越前の街道と宿駅

図23  越前の街道と宿駅
注) 貞享2年「越前国絵図」(松平文庫)により作成.

 国境の細呂木村と板取村には口留番所  が置かれ、御番所と称して、旅人の出入を監視し、とくに女性の出入を改めた女留番所でもあった。また、そこでは、藩外への移出が認められた産物から口銭を徴収した。福井藩は木綿外字・布外字・合外字・大外字糸・木綿布・楮紙・草類・蝋・漆の実などを口留番所で判鑑と照合のうえ移出を認めた。南の端に当たる板取口と西の端の二ツ屋口は今庄問屋が、北の細呂木口は細呂木問屋が他国からの荷物を改めた。また、細呂木宿から板取宿までの距離は約一八里で、宿駅間の最長距離は金津宿と長崎宿の間で二里二町三六間、最短は今宿宿と脇本宿の間で二〇町三九間であった。平坦な道が続く川北領・下領・中領(第三章第二節)の宿駅間の距離は一里をこえ、山道がある上領の宿駅間の距離は二五町ほどと短く、各宿駅間の平均距離は一里一〇町となる。この距離は人馬の継立てを行うのに便宜な距離として宿駅を創設するのに考慮されたと考えられる。なお、一里は約四キロメートル、一町は約一〇九メートルである。



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