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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    一 北陸道と宿場
      江戸幕府の宿駅制度
 幕府の宿駅制度は、戦国時代の伝馬制度が全国的に拡充され整えられたものである。関ケ原の戦いが終わった翌年の慶長六年(一六〇一)に、徳川家康は東海道と中山道に宿駅を置き、伝馬と人足の負担を命じた。東海道や中山道の多くの宿駅はこの年には成立したが、遅く設けられたものもあり、確定したのは寛永年間(一六二四〜四四)である。主要な街道は幕府の直轄下に置かれ、宿駅の設置や駄賃の制定なども平行して行われた。幕府は東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を五街道とし、幕府の用務や大名の参勤交代など、公用のために人馬を徴発し宿泊・休憩の施設を整えさせた。
 宿駅の機能は運輸・通信・休泊を主とし、運輸と通信のためには宿人馬が、休泊には本陣・脇本陣などが置かれた。寛永期以降には、一日に東海道は一〇〇人・一〇〇匹、中山道は五〇人・五〇匹、他の街道は二五人・二五匹を常備することとされた。その数を超過する分は通常の賃銭を払ったり、助人馬村または助郷などに負担させたりした。宿駅は公用のために設けられ、荷物が宿駅を素通りすることは原則として禁じられ、次の宿駅に継ぎ立てることとされた。その業務を扱うために各宿駅には問屋場が置かれ、宿役人がこれに当たった。公用の人馬に余裕がある場合には、荷主や一般の旅人は馬子や人足を相対賃銭で使用することができた。五街道の宿場に関することは、大目付と勘定奉行より一人ずつが兼任する道中奉行が管掌した。五街道沿いの宿場の人々は、伝馬・旅宿・飛脚などについて、道中奉行の指揮を仰ぎながらその任務に当たっていた。他の街道は、勘定奉行または沿道の各藩で管理されていた。



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