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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      韃靼漂流記
 ここで三国の商船に関する事件を一つ紹介しよう。寛永二十一年四月、新保浦の竹内藤右衛門、そのせがれ藤蔵、国田兵右衛門等五八人が三艘の船に分乗し、商いのために蝦夷地松前に向けて出船したが、五月に佐渡付近で暴風雨にあい、船は韃靼国(現在の中国東北地方)に漂着した。その場所はいまのロシア領のポシェト湾付近であったという(「韃靼漂流記」『日本庶民生活史料集成』)。
 乗組員は韃靼人の略奪にあい、多くは殺されて生き残った一五人が捕虜として労働を強制されるが、その後役人が来て、一五人は韃靼の都盛京(現在の瀋陽)に連行され、その後北京に連れて行かれて格別の厚遇を受ける。彼等が盛京に着いた頃というのは、韃靼国すなわち清国が明を破り、北京に遷都を行っている真っ最中であった。偶然のこととはいえ、彼等は満州人が清国を建て、北京に都を移すという歴史的な事件を目の当たりに見ることになるのである。
 記述された内容の一部を紹介すると、北京に送られる途中、韃靼から引越す人々が三五、六日の道程の間、引きもきらずに続いていた。また韃靼の都については二里四方ほどで隅々に矢倉があり全体が日本の城のようであるが、日本の城より粗相であり、それに対し、北京城は六里四方もあり総まわりに石垣を築き、門には矢倉が立てられ、石火矢が仕掛けてあった。宮殿は二〇町四方の塀で囲まれ、屋根が五色に輝き、大手門には大きな石橋が五つならんで架けてあり、欄干には竜の彫刻があった。また、韃靼と明との国境に石垣が築かれてあり、その長さが万里もあると述べられているが、これは万里の長城のことであろう。国の法度・万事の作法は、ことのほか潔白で、治安が非常に保たれていたという。
 当時の清の皇帝世祖順治帝は幼少であったので国政をとっていたのは叔父の睿親王であったが、彼等はこれを「キウアンス」と呼んでいる。この人は年三四、五歳にみえ、細くやせた人だが、この国第一の臣下で上下ともに恐れて歴々の衆でも直接にものを言えないほど偉い人であった。キウアンスの兄「ハトロアンス」は、年五〇歳くらいで武勇に優れた豪傑であったと述べている。また「仕置等万事八人にて被仰付候」とあるが、これは清の軍隊の基礎であった八旗を指すものと思われる。このほかにも弁髪のことや、滞在中に覚えた言葉や見聞したことなど様々なことが記されている。
 彼等は翌年五月帰国願を出し、十一月に許可がおり、朝鮮から対馬を経て大坂へと送還された。帰国後一五人のうち、国田兵右衛門・宇野興三郎が江戸に呼び寄せられ、江戸町奉行所で口書がとられ、この「韃靼漂流記」が成立することになったのである。同じ頃の正保二年(一六四五)、明の遺臣が明室の再興を図るために幕府に三〇〇〇人の援軍を請うてきており、このような状況のなかで、彼等漂流民のもたらした情報は幕府にとっても非常に関心の高いものであったに違いない。



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