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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      三国湊
 これまで敦賀・小浜について述べてきたが、ここで越前のもう一つの湊町である三国について触れることにする。
 三国湊は江戸時代を通じ福井藩に属し、福井藩唯一の外港として独占的権益が与えられるとともに、福井藩・丸岡藩など越前諸藩の物資の集散地として繁栄した。また、加賀国江沼郡の米は北潟まで川船で下し、そこから三国まで駄送、三国からは河野浦から雇った軽船で敦賀まで運ばれた。そのさい三国に集められた米は毎回一四〇〇俵から一五〇〇俵にのぼったという(森田正治家文書 資4)。すでに、柴田勝家・丹羽長秀等の領主は三国湊の保護を図っており、江戸時代に入ってからも、慶長七年(一六〇二)丸岡城主今村盛次が滝谷村への移住者に対し三年間無役にする、という優遇策をとっている(滝谷寺文書 資4)。三国の森田家、対岸の新保浦に住した久末家などは、このようななかで近世初期以来、廻船問屋として三国を本拠として活躍した豪商であった。
 領主による手厚い保護がなされた反面、沖の口法度や沖の口条目が制定され、三国湊は福井藩の厳重な統制と監視下に置かれた。沖の口法度は寛永三年に制定され、津留の品々、難船があった時の処置、問屋などが荷物を取り扱うさいの規定など、湊の移出入の大綱を二一か条に示したものである。沖の口条目は貞享四年に初めて制定されたもので、キリシタン宗門の禁をはじめ湊にかかわる役人の勤務、五倫の道徳など二一か条よりなり、毎年正月に金津奉行が問丸・庄屋・船問屋・組頭・長町人等に読み聞かせるのを例とした。
 敦賀・小浜は西廻海運の発達によって衰退に向かうが、三国の場合、湊の性格上その影響を受けることはなかった。三国湊に集められた荷物は、西廻海運の発達にともない、多くは下関を迂回し兵庫・大坂へと輸送された。そのなかで最も主要な荷物が福井藩や丸岡藩などの廻米であった。『三国町史』によれば、享保十八年十二月から翌年十月までに三国湊で取り立てられた口銭の銀高は、合計六貫九九六匁であり、これは米三三万三一五〇俵が売買された分に当たるという。表120はこの量を月別にまとめたものであるが、毎月二万俵から五万俵の米が三国湊で取り引きされている。
 安永二年(一七七三)には三国湊の家数は七九〇軒、人口は三〇一三人であり、船問屋は五三軒を数えた。また福井藩の米蔵七か所、幕府領の蔵三か所、預所の蔵六か所のほか、口銭役所  、川口番所(二軒)、御蔵番、札宿、金津組定宿などの施設が置かれていた(「村鑑」高橋好規家文書)。
表120 享保18年(1733)・19年月別米売買高と口銀

表120 享保18年(1733)・19年月別米売買高と口銀
注) 『三国町史』により作成.



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