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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      敦賀・小浜湊の衰退
 寛文年間からの敦賀への着米の変遷を追ってみると、四年に最高の七五万俵余を記録した後、五年六六万俵余、六年五五万俵余、西廻反対の願書が出された七年には四四万俵余となり、その後延宝年間から貞享年間(一六八四〜八八)までほぼ三〇万俵台、元禄年間(一六八八〜一七〇四)から宝永年間(一七〇四〜一一)には二〇万俵台から一〇万俵台と減少していった。そして享保期(一七一六〜三六)以降は二〇万俵をこえることはなくなり、延享年間(一七四四〜四八)頃から一〇万俵を割り、文化年間(一八〇四〜一八)には三万俵台まで落ち込んでいる。
 図22は上り荷に掛けられた駄別銀の変遷を示したものである。駄別銀は米以外の荷物にも掛けられ、またその時の米相場によって銀に換算されるため、必ずしも米の着津量の増減と一致しない部分もあるが、ほぼ米の動きと連動している。このグラフからも延宝末年以降の駄別銀の減少傾向は明らかであり、敦賀からの米を含む上り荷がこの頃を境に減少していったことがうかがわれる。
図22 駄賃銀の変遷

図22 駄賃銀の変遷

 西廻海運は小浜にも同様の影響をもたらした。『拾椎雑話』は「小浜繁栄、就中延宝より元禄之頃、宝永・正徳はさらなり」とかつての繁栄を記した後、「享保の始より年々衰廃に及」ぶと、記している。船持についても「延宝・貞享の頃、小浜舟持大船四十艘斗あり」と記すが、「正徳年中まて二十艘斗も有し所、寛延の頃四百石以下七八艘に成り候」と湊の衰退にともなって船持も減少したことを述べている。
 また、宝永四年小浜四十物問屋から出された願書に「先規ニ違、四十物諸色共ニ入舟無数」と四十物などの入津が少なくなったことが述べられており、そのために近年は「自是中国之四十物等直ニ大坂筋、尾州名護屋廻りニ仕、入舟無御座候ニ付」と、従来小浜から仕入れていた四十物が大坂や名古屋廻で流通しているとして、西廻海運の発達の影響を嘆いている(市場仲買文書)。そしてこうなったことの原因として「御当地より上方筋へハ場所遠ク御座候故、別而かゝり物多ク罷成候ニ付」と、やはり掛り物による経費の高さをあげている(同前)。
 なお、時期はやや下るが、天明八年(一七八八)頃の小浜への入津船数は四七六艘、荷物は米・大豆・小豆合わせて一四万五四七〇俵、四十物二万一七七一箇であった(藤田義一家文書)。ちなみに同八年の敦賀では船数二六五艘、米六万二六〇〇俵、大豆二万〇七三〇俵であり、小浜よりもさらに少なくなっている(「指掌録」)。
 湊の衰退はまた、湊を中心に発展してきた敦賀や小浜の商業全体にも大きな打撃を与えることになった。
 十八世紀になってからの敦賀の町は、元文二年(一七三七)奉行所より町方に出された触書に「当町以前繁昌之時節と違、只今火難等有之候而ハ誠ニ衰廃之元ニ候故」とあり、翌三年には「近年当町不繁昌ニ付、小屋之者へ施物年々令減少及困窮」と記されているようにように、かなり衰退した様子がうかがえる(「指掌録」)。
 また寛保二年(一七四二)の「触」には「当年珍敷加州米も余程着岸、其外当秋所々御城米も可来様子ニ相聞候」とあり、加賀その他の蔵米が例年以上に入津するにさいし、荷物の停滞・問屋などの不心得がないように戒めるとともに、「再敦賀繁昌之基ニも可相成哉」と商況挽回に望みをつないでいる(「指掌録」)。しかしこの年の敦賀への入津米は確かに増えてはいるものの、一二万八五〇〇俵であり、往時には遠く及んでいない(同前)。
 こうして西廻海運の発達によって、敦賀湊・小浜湊はかつての北国と上方を結ぶ重要な商品流通路の結節点としての地位を大きく後退させた。



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