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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      湊の衰退と掛り物
 敦賀・小浜を中継する北国海運が衰退していく原因としては、大坂が全国的な市場として発展し、西国だけでなく、北陸・奥羽もその市場の中に吸収されていくという大きな流れも見逃せない。しかし直接的原因としては敦賀・小浜を中継した場合の運賃の高さの問題があった。
 越後から米一〇〇石を登せるのに、大津着と大坂着との経費を比較した寛文七年の史料がある(「寛文雑記」)。表119はこれをまとめたものである。大津へ米一〇〇石を登せた場合、運賃とそれにかかわる諸経費を加えると一七石五斗八升となる。これに対し大坂へ直送した場合の運賃は一九石であるが、大津着の場合には荷物の積替えのさいの欠損分である欠米が五分ほど見込まれ、四石八斗減となるため結局大坂着が三石三斗八升徳用となる。

表119 敦賀経由と大坂直送の経費比較

表119 敦賀経由と大坂直送の経費比較
注) 「寛文雑記」により作成.

 米の売却についても一〇〇石を大坂で売った場合には一石五四匁の相場で、一石につき口銭六分を差し引いて五貫三四〇匁となったのに対し、大津で売却すると一〇匁につき一斗九升の相場で、四石八斗の欠米と一〇匁につき五分二厘六毛の替銀を差し引いて五貫〇一〇匁となり、やはり銀三三〇匁の大坂徳用になる。
 また、敦賀で米を売却した場合には運賃が六石と安いが、米相場が一〇匁につき二斗三升と大津よりもさらに安く、小判一両の相場も上方では五六匁五分であったのに対し敦賀では五八匁で、この差分と仲を差し引くと四貫七五六匁となり、大坂着の方が五八四匁の徳になったという。
 いずれにしても敦賀で中継するよりも、大坂に直接運ぶほうが経費面で有利な状況にあったのである。



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