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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      西廻海運の影響
 西廻海運が盛んになることに対して、北国との荷物取引で繁栄を保っていた敦賀や小浜の商人たちは敏感な反応を示した。
 万治年間、信濃川を改修し、江戸送りの荷物を積んだ船を新潟に入津させ、信濃川の水運によって上流まで運び、そこから江戸まで陸送する計画がもちあがった。この計画に対し万治四年三月、敦賀町・山中・新道野、小浜町・熊川、近江の今津・海津・大浦・塩津・大津その他近江の諸浦の船持中より反対の願書が出され、同じ頃同様のものが敦賀・小浜の代表者塩屋九郎右衛門・橋本新右衛門の名で藩の年寄宛に出されている。この計画は同年四月幕府老中の裁許により中止されたが、この時の願書の中に「近年北国米大豆大坂へ廻り迷惑仕候義も、折を以御訴訟仕度」と、この頃すでに北国荷物が西廻で大坂に廻漕されることによる影響が敦賀湊に出始めていることを述べている。西廻海運の利用はその後さらに盛んになっていき、諸藩の城米だけでなく、大坂の商人による北国の米・大豆の買付けも始まり、敦賀や小浜への影響が次第に大きくなっていった。
写真141 敦賀湊(「敦賀真景」)

写真141 敦賀湊(「敦賀真景」)

 寛文七年(一六六七)、敦賀郡中より西廻差止めを求める願書が、幕府巡見使に対して出された。その願書の内容は主として次のようなものであった(「寛文雑記」)。
 (1)敦賀には昔から北陸道七か国・出羽・陸奥の俵物が運ばれていたが、二五、六年前
   から大坂へ直送されることが多くなり、以前は一〇〇万俵近く送られてきた俵物がお
   よそ三分の一に減ってしまい、敦賀はもとより京都までの道筋の多くの人々が迷惑し
   ている。
 (2)西国の商人が北国まで米・大豆の買付けに行くため、それらの相場が上がっている
   。また、途中で海難にあうことも多い。
 (3)それまでは大坂・大津の相場のうち安い方が京都に運ばれたが、現在は大坂の独
   占状態になり、高い米を買わされて京都の町人も迷惑している。
 (4)西国商人の米買付けのため、北国筋の船持なども迷惑している。
 (5)敦賀に来る下り荷は、京・大坂・大和・河内・和泉・伊賀・伊勢・美濃・近江などから毎
   年五万駄ほどあるが、敦賀に船が入らないためこれらの荷物が滞っている。
 (6)信濃川普請反対の訴訟の時に、北国荷物の大津着は保障されている。
 また、敦賀へ荷揚げし大津へ運ぶ運賃が西廻よりも高くなることを認めながらも、「当地は往古・北陸道七ケ国・出羽・奥州を抱申湊にて御座候、大坂は西国・中国を抱申湊にて御座候」と、敦賀湊と大坂湊の古来よりの地域的位置付けおよびそれによる秩序を強調している。
 寛文十二年、幕府は江戸商人河村瑞賢に、出羽の幕領米を江戸に直送することを命じた。瑞賢はこの航路として西廻を採用し、北国海運に慣れた讃岐の塩飽島などの船を用い、船には幕府御用の旗をたてて寄港地の入港税を免除させ、岩礁で危険な下関湊に水先案内船を備え、志摩鳥羽湊口の菅島には船の目標として毎夜烽火をあげさせることにした。また、寄港地には番所を設け、さらに沿岸の諸大名・代官に廻米船を保護させた。こうして幕府の廻漕船は五月二日に出帆、七月には無事江戸に着いたという。
 河村瑞賢の事業によって西廻海運の安全性が高められたことは、敦賀・小浜にさらに大きな打撃を与えることになった。庄内藩では延宝元年(一六七三)に初めて蔵米の大坂送りを行い、天和元年(一六八一)に敦賀送りと両方をとるようになった。また敦賀に蔵屋敷を置いていた津軽藩でも、延宝六年より西廻による蔵米輸送を行っている(『敦賀市史』通史編上巻)。前掲図20のグラフを見ても明らかなように、この頃を境に敦賀湊の入港船数・米の入津量は大きく落ち込んでいった。



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