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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    四 西廻海運の発達
      大坂廻米の始まり
 西廻海運は日本海沿岸を西南に廻り、下関から瀬戸内海に入り、大坂に至る海運のことである。東廻海運は日本海沿岸から北廻で太平洋岸に出て南下し、房総半島を迂回して江戸に達する海運であるが、例外的ながら弘前藩や八戸藩は寛永期(一六二四〜四四)には東廻海運を利用しており、両海運ともに江戸時代初期にすでに開拓されつつあったといえる。例えば山陰の鳥取藩は寛永十五年に米一万五〇〇〇石を、翌年には加賀藩が米一〇〇石を西廻で大坂に廻漕している。加賀藩は正保四年(一六四七)に蔵宿を大坂に置き、明暦期(一六五五〜五八)以後は城米のほとんどを大坂に廻漕するようになったという。
 同じ頃、その他の北国諸藩も次第に大坂廻米を試みるようになり、『稚狭考』には聞き伝えとして、明暦年中大坂の人が廻国修行中、越後新発田の辺りで米の値段が安いのに驚き、大坂に帰って船行を企て米を直接大坂に入津させて以後、越後からの大坂廻米が始まったことを記している。西廻海運は距離的に長く、途中海難の危険性も高かったが、荷物を積み替えることなく大坂に直送でき、費用も安くすんだため、寛永期以後徐々に盛んになっていった。万治二年(一六五九)に、幕府は出羽最上郡の幕領米を江戸商人の正木半左衛門等に請け負わせて、西廻で江戸に廻漕させた。



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