ここでは何人かの敦賀商人を例にあげその活動を中心に述べてみることにする。美濃屋仁兵衛は「遠目鏡」に三艘の船持としてみえ、越後長岡・出羽秋田の蔵宿であり、越後・秋田の筋宿でもあった。寛永十四年の吉田長元書状(橋詰久幸家文書)に、富山・滑川・魚津に滞っている米八四七俵を運ぶのに当地では船がなく迷惑しているので、少し高くついても構わないから美濃屋の船を二、三艘廻してほしいとある。同十七年五月、秋田で積まれた米五五〇俵のうち五〇〇俵が加賀の船主によって美濃屋に届けられ、また同十九年三月に新潟からの米一五五俵が、同年四月には越後新発田藩の蔵米一〇〇俵が、さらに同年五月に越後村上藩蔵米九三俵が仁兵衛宛に送られている。これら越後などからの米は、敦賀美濃屋から近江海津の問屋のもとに運ばれている。また寛永十九年四月、大豆一〇四俵が新潟湊で積まれ敦賀に着いているが、その荷主は美濃屋仁兵衛であった。これらのことから寛永期から、美濃屋がすでに船持として、あるいは蔵宿・諸国商人宿として活躍していたことが知られる。
天屋弥三右衛門は「遠目鏡」に四艘の船持としてみえ、また越後長岡、出羽山形・本荘の蔵宿を勤め、庄内・秋田・伊勢の商人宿でもあった。元禄五年の「敦賀湊長者番付」では筆頭の大関に格付けされている有力商人であった。延宝八年(一六八〇)新潟の船宿美濃屋猪左衛門に宛てた書状によれば、「二上印茶拾八本」を山形の家中荷物とともに酒田に向け積み下そうとしたが、よい船がないので新潟の美濃屋へとりあえず預けることにし、よい船が見つかれば酒田の船問屋鐙屋惣左衛門に宛てて下すよう依頼するとともに、また大豆の値段が安い場合の買付けを依託している(橋詰久幸家文書)。弥三右衛門は享保十八年(一七三三)小浜藩より五人扶持が与えられ、さらに元文二年(一七三七)に五人扶持を加増され一〇人扶持となり、あわせて居屋敷一か所の地子諸役を免許された。
最里六右衛門は屋号を岐阜屋といい、天屋弥三右衛門とともに大関に格付けされ、美濃筋の商人宿を営んでいた。享保十年御用金を多額に上納した見返りとして、藩より二〇人扶持を与えられ屋敷二軒の諸役地子を免許されて、打它格となった(「指掌録」)。打它格とは町年寄の上に位し、敦賀町家の筆頭であった打它家並の家格のことである。
具足屋次郎兵衛は元禄五年の長者番付に前頭としてみえ、「遠目鏡」によれば京筋の商人宿を営んでいた。寛文から延宝頃次郎兵衛は京都など上方の商人からの依頼によって、秋田や最上・津軽・越後など北国の米や大豆を仕入れ、相場をうかがいながら上方に送っている。そのさい、上方に滞在していた父親の長右衛門と京・大坂の相場などについて頻繁に書状のやりとりを行っている(橋詰久幸家文書)。 |