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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
     三 敦賀商人の活躍
      あるき・からげ・町持
 「あるき」は、船と問屋・蔵宿などの相互の連絡をおもな仕事とするものであり、敦賀では「売問屋あるき」「買問屋あるき」「船道あるき」の三つがあった。売問屋あるきとして観世屋町の次郎三郎・作兵衛の二人、買問屋あるきには三日市町の吉兵衛、船道あるきに舟町の久左衛門・次兵衛が知られる(「遠目鏡」)。
 「からげ」は「惣而町中問屋其外共之荷物賃を定、からけ之座之者斗ニてからけ候事を家督とする也」(「指掌録」)とあるように、問屋などの荷物を締め直したり梱包することを、座を構成して独占的に行っていた。またあとに述べる「町持」のなかにもからげの職を兼ねるものがあった。天和二年のからげの荷物作り賃は、中俵一俵に米二合、秋田米中俵に二合五勺、筵包一俵に三合、鯖作り賃一箇に四合五勺、昆布一箇に三合、干鮭一箇に二合、濡俵の切替え一俵に三合であった(「遠目鏡」)。なお諸大名からの廻米の「〆直し賃」については、問屋得分として一石につき米三合九勺六才があった。(「指掌録」)。
 「町持」は「町中之俵物其外共賃を定メ、持運船積船揚共ニ外之者ニ不為致、丁持中間之家督とする也」(「指掌録」)とあるように、諸荷物の荷役作業と町と船との間の運送を独占的に行っていた。町持仲間は四組ありそれぞれに頭が置かれ、寛文頃には三ツ屋村に多く居住して注1 数字は米100俵についての丁持賃.
  注2 『寛文雑記』により作成.
いたためか「ミつや町持」と呼ばれていたが、その後新しく町立てされた地に移り、丁持町と称するようになった。町持と同じような仕事をしたものに「平持」があったが、彼等は持ち賃の一部を町持仲間に運上として差し出す義務を負っていた。なお寛文四年に平持の人数は三〇〇余人であった。
 町持賃は冬より春にかけての荷物の少ない時期には安く、荷物の多い夏では高くなっていた(表117)。平持からの運上である「上増」は二升から三升であった。また寛文十二年津軽や秋田・能代などの米については、一〇〇俵につき持賃三斗から四斗五升であり、寛永十四年(一六三七)よりも高くなっている(「寛文雑記」)。
表117 寛永14年(1637)の丁持賃

 表117 寛永14年(1637)の丁持賃
    注1 数字は米100俵についての丁持賃.
    注2 『寛文雑記』により作成.



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