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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
     三 敦賀商人の活躍
      船持・船大工
 近世において、敦賀では船持の仲間のことを船道といい、川船座・河野屋座・諸浦座をもって船道三座と称した。それぞれの座数は川船座二三座・河野屋座二二座・諸浦座二二座の計六七座であった。これは秀吉の朝鮮出兵のさい敦賀の町郷から水主六七人を徴し、三つの地区に割り振ったことに始まるという(『敦賀市史』通史編上巻)。
 船道三座の諸入用の割り振りを決めた「河舟座・猟浜・諸浦役舟之割」(「寛文雑記」)によれば、諸入用一貫目は六七人役に割られ、三四三匁余を船道中二三人役、三二八匁余ずつを猟浜(両浜)中・諸浦中それぞれ二二人役として負担することになっていた。ここにいう船道中とは川船座のことであり、猟浜中が河野屋座、諸浦中は諸浦座に当たるものと思われる。古くから廻船業の主力となったのは川船座であり、今浜村と名子・縄間・沓・手・色浜・浦底・立石・白木浦などによって構成される諸浦座は漁業を主としていた。
 猟浜は川向唐仁橋町・川向御所辻子町のことで、漁師町として知られるが、寛文七年の川向唐仁橋町の船数は三二艘で、うち一三艘がはがせ船、四艘が中船、六艘が下り荷積船、九艘が餌取船である。同じく川向御所辻子町の船数は六〇艘で、うち一〇艘はがせ船、九艘餌取船、一一艘中船、一二艘海鼠引船、一八艘磯見船、一艘下り荷積船であった(「寛文雑記」)。西廻海運発達以前には日本海廻船の主流であったはがせ船が含まれていることから、廻船業を営む者もかなりいたことがうかがわれる。また、同じ頃の報告に、おそらく川船座のことであろう「敦賀町船数」として二七艘とあり、内訳は大船四艘、五人乗一二艘、四人乗二艘、三人乗一艘、二人乗八艘である(同前)。
 敦賀の船持の特権として、下り荷については古来よりまず敦賀の船に積み、残る荷物を他国の船に積むことになっていた。これに対し寛文四年、加賀の太田屋七右衛門等が、敦賀へ来てこの特権に対する異論を唱え、荷主の希望どおりの船に荷物を積まなければ、敦賀へは荷物を廻さず、もっぱら小浜へ送ると届け出てきた。これには、結局打它伊兵衛が斡旋して、地船優先の古法を破らず、運賃の適正化や滞貨のないよう、他国船への荷積みについても配慮することを条件に和談が成立した。この時の一札に船道中として一八人が署名している(「寛文雑記」)。
写真139 敦賀八景

写真139 敦賀八景

 「遠目鏡」には船持として一二人が記され、天屋弥三右衛門四艘、美濃屋仁兵衛・同九兵衛各三艘、茶屋弥三兵衛・幸光甚右衛門各二艘、佐渡屋加右衛門・津軽屋久太夫各一艘のほか、小舟持五人の一一艘の合計二七艘があげられている。この船数は寛文期の川船座の船数と同じであり、「遠目鏡」の船持がそのまま川船座の船持であるかどうかはわからないが、寛文四年の船道一八人も「遠目鏡」の船持一二人も敦賀の船持すべてを記しているわけではないようである。
 船大工は「遠目鏡」に川向の善右衛門と権兵衛の二人をあげているが、小浜ではほぼ同じ頃、船大工一三人となっており、敦賀の場合比較的有力な船大工のみを記したのかもしれない。敦賀の船道に所属する地船と他所から敦賀に寄港する旅船とでは、船大工の作料は異なっており、地船は朝・昼・夕三食用意して一日銀二匁ずつ、旅船は三食付きで一日銀二匁五分ずつ、大工が弁当を持参した場合銀四匁であった。ただし旅船のなかで河野・今泉の船は、冬の間も敦賀に船を囲うので、地船同様銀二匁、弁当持参の場合は三匁五分であった(「指掌録」)。



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