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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
     三 敦賀商人の活躍
      敦賀の商業
 天和二年(一六八二)に成立した「遠目鏡」には、諸国商人宿付・船持付・諸商人付など、当時の色々な商売を営んでいた商人の名が記されている。表116はそれを職種別、軒数別にまとめたものである。この表をもとにしながら当時の敦賀の商業を概観してみることにする。

表116 天和2年(1682)敦賀の商業

表116 天和2年(1682)敦賀の商業
 まず、ここにあげられている職種は一四九種類あり、一人がいくつかの商売を兼ねている場合もあるが、軒数は延べ一一三六軒である。これは天和三年の小浜の職種九九、人数一七六一人に比べると職種が多く人数が少なくなっている(『拾椎雑話』)。これは取り上げ方の相違と思われるが、かなりの数がいたと思われる猟師や草履・草鞋屋・縄筵屋・猿回し・鉢坊などの職種については人数が記されておらず、小浜では一〇九人を数える舟乗・魚の小売商人はみえない。あるいは「からげ」や「町持」は頭分だけをあげている。これらのことを勘案すれば、少なくとも敦賀でも小浜と同程度、あるいはそれ以上の商人の存在が想定できる。
 これら多くの職種からも当時の敦賀町の賑わった様子を思い描くことができるが、特徴的なのは商業機能の発達にともない、問屋のいくつかが売問屋と買問屋に分化していることである。売買両問屋に分かれている職種をあげると、俵物のほか煙草・四十物・鉄など敦賀の主要な移入品を扱う問屋が多い。これに関連したものとして売問屋あるき・買問屋あるきがある。すでに述べたように、売買両問屋は京極氏の時代にすでに成立しており、万治年間(一六五八〜六一)には売問屋一八〇人、買問屋一六〇人を数えた(「寛文雑記」)。
 鉄売問屋・鉄買問屋がそれぞれ三軒、銅問屋が五軒あるが、鉄は出雲、銅は寛文期(一六六一〜七三)から元禄期(一六八八〜一七〇四)にかけて盛んになる出羽の阿仁・尾去沢などの鉱山からもたらされたのであろう。昆布や魚肥など蝦夷地松前の産物を取り扱う松前物問屋も三軒あり、松前との結びつきの強さをうかがわせる。昆布屋が三軒あるが、刻み昆布などの加工は現在でも敦賀の特産物となっている。小浜で加工された昆布は小浜藩から将軍家や諸大名への進物としても用いられ「召の昆布」と呼ばれたが、その材料は敦賀で陸揚げされた昆布のうち最上の物が選ばれ、小浜までの村々の出役で持ち継がれた。
 商人で軒数の多いものとしては、問屋・諸国筋宿・蔵宿などのほかに、小売米屋三〇〇余軒、大工六〇余軒、桧物屋五〇余軒、油屋二五軒、酒屋二二軒、紺屋二一軒、利銀指一六軒、質屋一五軒などがあり、これらはいずれも町の日常生活にかかわりの深いものである。馬具屋・柄巻屋・研屋・鞍指などは主として北国諸藩の武家の需要にこたえるものであったし、饅頭屋・菓子屋・餅屋・倹飩屋・切麦屋などは都市としての特徴を示す職種である。
 敦賀の鳥子紙は中世以来のもので、近世には鳥子紙漉屋が四軒あり、紙屋町に住み生産に従事していた。敦賀町の小物成に紙役があり「是ハ紙や五十人・立ル」(「寛文雑記」)とあり、「此役銀半分ハ本座七人、半分ハ新座廿一人より納之」(「指掌録」)ともあるように、寛文期には紙漉きが五〇人おり、その後二八人となり、本座と新座に分かれていた。木田石屋は福井産の笏谷石を取り扱った。笏谷石は足羽山の笏谷付近を中心に産出し、きめが細かく、加工しやすく、また火に強く色が美しいという長所から、日本海側各地で取引きされた。唐津焼物屋が取り扱った唐津焼は、元禄の頃までは「西国唐津船毎年四月に来り土橋より北の大溝まて十間程に小屋を懸、いまり焼物見せを出し、町在共此来るをまつて多くの商物いたし候事二ケ月計」とあるように盛んに小浜にもたらされた。敦賀もほぼ小浜と同じ状況であったと思われるが、元禄末頃からは京清水焼に押され、「唐津舟も小屋懸致候ほとの商もなく今は止候よし」と次第に少なくなっていった(『拾椎雑話』)。
 湊に関係する職種としては、諸藩蔵宿や俵物・銅・鉄・松前物・材木・紅花・青苧・煙草・四十物・塩・茶・呉服などの諸問屋をはじめ、諸国商人宿・船持・船道具屋・碇鍛冶・船大工・売買問屋あるき・船道あるき・からげ・町持などがある。問屋・蔵宿・諸国商人宿については第一項で触れたので、ここではそれ以外の湊に関係する商売をみていくことにする。



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