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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      蔵宿・諸国商人宿
 蔵宿は蔵元ともいい、諸藩から委託されて城米を運送したり売却する役割を担った。近世初期には敦賀では道川・高嶋屋・三宅・田中などの有力商人たちが南部藩や加賀藩等諸藩の蔵宿を勤め、小浜でも組屋・木下和泉などが加賀藩の蔵宿であったことが知られている。十七世紀初め頃のものと思われる六月八日付前田利常判物(組屋文書 資9)には、若狭へ為登米の宿を組屋・木下両人に申し付け、加賀藩から遣わされた奉行と相談のうえ、蔵米の処分をするよう申し渡している。
 「諸大名登り米高付」(「遠目鏡」)には北国一六藩の蔵宿四〇軒が記されている(表113)。いずれの藩も蔵宿や蔵仲などとともに奉行と、藩によってはそれに加えて足軽が記されており、蔵宿はこれら役人との相談、指示のもとに城米の輸送や売却を行ったのであろう。蔵宿のなかには複数の藩の用を勤めるものもあり、打它伊兵衛が勝山・福井・村上・長岡・山形・庄内と最も多く、三宅彦右衛門が大聖寺・長岡・庄内、道川三郎左衛門が大聖寺・長岡・新庄、高嶋屋伝右衛門も同じく大聖寺・長岡・新庄、高嶋屋久兵衛が村上・長岡・与板などとなっている。これらのうち打它・道川・高嶋屋伝右衛門などは、近世初期からの豪商として知られている商人たちである。

表113 敦賀の諸藩蔵宿

表113 敦賀の諸藩蔵宿
   注1 *当時は福井藩預りであった.
   注2 「遠目鏡」により作成.

 また、藩によっては別に蔵屋敷を置くところもあった。例えば、加賀藩は敦賀三日市町に蔵屋敷を置いていたが、寛永十七年これを高嶋屋伝右衛門に預けている(小宮山文書)。「遠目鏡」によれば、天和二年頃には丸岡藩・津軽藩の城米の記述のところに「当地ニ蔵屋敷有」とあり、両藩の蔵屋敷があったことが知られるし、津軽藩の蔵屋敷については敦賀の享保末年頃の町絵図に、湊に近い舟町から東浜町にかけて蔵屋敷が描かれている。
 「諸国商人宿付」(「遠目鏡」)には諸国商人宿として、越後筋八軒・庄内筋四軒・津軽筋三軒・秋田筋七軒・佐渡筋三軒・越前筋五軒・加賀筋五軒・丹後筋四軒・若狭筋二軒・海津筋三軒・東近江筋五軒・大津筋四軒・京筋三軒・西国筋四軒・薩摩柳川(近江)筋二軒・輪島筋二軒・伊勢筋三軒・美濃筋三軒など地域別に宿七〇軒の名が記され、「其外二十軒程有」と書かれている。ただし同一人物が複数の商人宿を兼ねている場合もあるので、それを整理すると六二軒となる。諸国商人宿は、問屋による荷物の売買が行われている間、諸国の商人に宿を提供し、蔵宿や諸国商品を取り扱う問屋を兼ねるものも少なくなかった。



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