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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      米仲・茶仲
 仲は「すあい」と読み、売買の仲介をするもので、牙合とも記した。仲は取引きされるとくに重要な荷物について設けられ、敦賀や小浜では米仲と茶仲があった。仲は米や茶の取引きが行われたさい、売手買手双方から仲銀を徴収した。
 米仲は「何ニても升ニて斗候売物」とあるように、米だけでなく麦や稗など升での商いが行われたさい、売買双方から銀一〇〇匁について一升六合ずつの仲銀を徴収した。敦賀でも仲はかなり早くから成立していたらしく、「米仲の事、若狭守(高次)様当地拝領二三年以前迄ハ、銀百匁ニ付米一升宛仲人取申候」とあるように、京極氏入封以前から米仲があり、その頃は銀一〇〇匁の取引きについて米一升ずつ取るものであった。その後銀一〇〇匁につき一升二合ずつとなり、京極氏の時代の寛永四年に、一〇〇匁につき一升六合ずつとなった。それまでは仲銀は藩へ上納されることはなかったが、同四年より三升二合の仲銀のうち二合を売買両問屋の会所入用に充て、残り三升を折半して一升五合を藩へ上納することになった。
 また、この時に仲座の座数が一八人と決められ、さらに打它氏が米仲頭に命じられて、合わせて仲座数を一九人とした。年々の米仲銀の上納額を表111に示したが、寛文六年を例にとると、米仲銀の藩への上納額は四六貫七九六匁一分八厘であり、この額は敦賀町中の地子銀一六貫三三七匁三分の三倍近く、駄別銀に次ぐ額となっている。荷揚げされた米の多くが、敦賀で取引きされたことがうかがえる。

表111 米仲銀上納高

表111 米仲銀上納高
注) 「寛文雑記」により作成.

 なお、仲が自ら俵物などの売買をすることは禁じられていた。万治二年米仲の口数についての願書が敦賀両問屋より出され、最近は俵物の売買が多くなり一八人の仲では不足であるので、あと一〇人ほど増やすのが適当であるといい、そのなかで仲が近年わがままに直接俵物の売買をするものがある、と述べている。これに対し「仲中自分ニ大津へ之俵物商ニ当地ニてハ買為登申間敷候事」などという誓紙案が作られたが、仲が両問屋に従属するような内容には同心せず、もめたようである。
 茶は一箇の量が問屋により、また人によりばらばらで、売手買手ともに不都合な点が多かったために、寛文四年、売買双方の望みによって茶仲が設けられ、茶の売買のさいには茶仲立会いのもとに量目がはかられることになった。この茶仲は当初六人であったが、寛文七年片山草軒が新たに二人分を与えられ茶仲二口で頭となり、合計八口となった。茶の取引きが行われた時には、仲賃として茶代一〇〇匁について銀七分ずつを売手買手双方から取り立て、その三分の二を小物成として藩に上納、残り三分の一を茶仲の取り分とした。例えば、寛文十年に売手買手双方から「両仲」として四八貫五九二匁四厘の茶仲銀が徴収され、そのうち三二貫三九四匁九分六厘が藩へ上納され、残り一六貫一九七匁八厘が仲八人の取り分となっている。なお、藩への上納は前年の十二月から翌年の十一月分までが一年分とされた。表112は寛文四年から延宝三年までの茶仲銀高を示したものである。茶仲も米仲同様、自分で茶の商いを行うことを禁じられていた。

表112 茶仲銀高

表112 茶仲銀高
注) 「寛文雑記」により作成.



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