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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      売問屋と買問屋
 これまでにみてきたように、多くの上り荷・下り荷が敦賀や小浜に集められ、上方あるいは北国へと運ばれた。このように敦賀・小浜が北国と畿内を結ぶ結節点として重要な位置を占めるようになるにしたがい、それら荷物を扱う様々な商業機能も発達した。以下敦賀にもたらされた様々な荷物の取引きに関与した商売について述べることにする。
 敦賀や小浜に荷揚げされた俵物をはじめとする荷物は、敦賀や小浜を通過するだけでなく問屋などによって扱われ様々に取引きされた。荷物が取引きされるに当たっては、「問屋継目之判形無之内、諸事売買仕間敷候」(『敦賀郡誌』)とあるように、必ず問屋の手を通して売買された。敦賀の問屋については、万治三年(一六六〇)のものであろうと思われる史料に「売問屋百八十人、買問屋百六十人、たはこ切百五十九人、茶問屋二十五人、茶中買二十人、茶小売九人」(「寛文雑記」)とあり、この頃すでにかなりの数の問屋があったことが知られる。また、「遠目鏡」によれば、天和二年頃俵物売問屋六〇余軒(そのほかに小宿があった)、同買問屋四〇余軒、銅問屋五軒、鉄売問屋三軒、鉄買問屋三軒、松前物問屋三軒、材木売問屋三軒、同買問屋四軒、紅花青苧問屋三軒、煙草売問屋五軒、同買問屋六軒、四十物売問屋五軒、同買問屋四軒、塩問屋六軒、茶問屋二四軒、御服問屋三軒が記されている。
写真136 敦賀の茶問屋

写真136 敦賀の茶問屋

 売問屋は本問屋または会合問屋ともいい、荷主の委託によって、または自ら買い取って仲買に荷物を売り渡すことを商売とするものであり、買問屋とは仲買のことで、商人の注文を受けて、または自らの判断によって売問屋から荷物を買い取り、小売に売り渡すことを業とした。買問屋はその荷物の多くを大津方面に販売したために為登問屋とも称された。万治三年の売問屋・買問屋と記されているものには、「遠目鏡」の例から考えて俵物問屋のほか種々の問屋が含まれていたものと思われる。
 問屋が売問屋と買問屋に分かれていることについて大津ではすでに慶長頃に、俵物の両問屋が成立していたことが知られており、敦賀でも仲仲間の成立を仲惣中が述べた覚書の中に「京極様御代卯ノ年(寛永四年)……両問屋寄合之入用ニ罷成」とあり、すでに京極氏の時代、寛永四年頃には売買両問屋が成立していたことがわかる。また売問屋には本問屋・脇問屋・小宿の区別があった。脇問屋は本問屋支配の荷物の三分の一以下の配分を受け、本問屋が売り捌いた値段で取引きを行うことになっていた。小宿は最初は少しの荷物を取り扱っていたが、のち水主の世話がおもな仕事になり、本問屋の利益の一割以下の配分を受けた。
 俵物の場合、問屋の手を通って荷物が取引きされるさいの問屋得分として、天和三年の「起請文前書問屋中定書條々」および「定」(『敦賀郡誌』)によれば、問屋替米として銀一〇匁につき一升、問屋場米が一石について一升四合八勺、諸荷物口銭銀一〇匁に二分、買置口銭一石につき六分、蔵敷年六分、諸大名米締直し賃として一石について三合九勺六才、掛賃一石に一合九勺八才、絵符紙印墨代として一石につき一勺九才、仲銀一〇匁につき一合五勺八才であった。問屋替米と問屋場米については、
   一、問屋がへ米ハ拾匁ニ付米壱升ツゝ売手・取之、縦ハ米値段拾匁ニ三斗ニ候得ハ
      内壱升問屋へ引取、弐斗九升買手へ渡之、此がへハ売問屋之徳用也、
   一、問屋場米ハ一石ニ付米壱升四合八勺ツゝ荷主・取之、是ハ売問屋・買取候而買
      問屋之蔵ニ預ケ置候故、旅人手前・買問屋へ場米を取也、
とあるように(「指掌録」)、問屋替米は米などの売買が成立したさい、その手数料として売問屋が売手より徴収するものであった。また問屋場米は米の保管料として、また「庭米ハ札申受候賃ニ旅人より取候由」(同前)とあるように直接的には駄別札の交付料として、一駄を単位として買問屋が取るものであった。



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