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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      近世前期の下り荷
 下り荷のうち、敦賀で扱われた最大の商品は茶であった。早い例としては、天正十七年(一五八九)に伊勢からの茶荷物が塩津から新道野経由で敦賀にもたらされたという記録がある(旧西村孫兵衛家文書 資8)。敦賀での茶の取引きは、もっぱら茶町の茶商人たちによって行われた。茶町は寛永十一年、笙ノ川西岸に町立てがなされ、そこに藩主の命により茶商人を住まわせたことに始まる。表110は、寛文四年から延宝三年までの茶高を示したものであり、当時毎年約四万本の茶が敦賀にもたらされていたことがわかる。売茶、通茶という区別があり、売茶とは敦賀で売り払われた茶であり、茶一本につき大体九〇匁から一〇〇匁で取引きされていた。通茶とは、敦賀で売買されずに直接北国などに送られた茶である。なお、茶の売買のさいに徴収された茶仲銀は、売茶にのみかけられた。茶一本というのは、政所茶が正味一三貫から一四貫、美濃茶は一四貫五〇〇匁から一四貫九〇〇匁、北伊勢政所茶は一〇貫五〇〇匁から一三貫、伊勢茶は一四貫五〇〇匁から一五貫、板取茶が一四貫から一四貫八〇〇匁、若狭茶は一四貫というように、国によって若干の違いがあり、大体一〇貫から一四貫というところが多かった。ここにみえる政所茶は、近江愛知郡政所地方産、板取茶は美濃武儀郡板取地方産の茶である。

表110 敦賀着の茶荷物量

表110 敦賀着の茶荷物量
注) 「寛文雑記」により作成.

 小浜では当初、茶の取引きはそれほど行われなかったらしく、寛文十年敦賀本町問屋が、小浜で茶の新市を設ける動きに対して、そのようなことになれば茶代として敦賀に着いていた上り荷までが小浜に流れ、茶町ほか多くの敦賀商人が困窮するであろうことを嘆いた願書を出している。小浜では茶仲銀が元禄元年に始められており(『拾椎雑話』)、寛文から元禄までの間に茶の取引きが本格化したものと思われる。
 茶以外の下り荷については、あまりまとまった史料はないが、「寛文雑記」に断片的に現れる荷物を拾いだしてみると、大和・山城・河内・和泉の木綿・繰綿・古手・めんたい・砂糖・鰹などがある。その量については、京・大津・大和・河内・和泉・伊賀・伊勢・美濃・近江から北国へ下される荷物が、毎年五万駄余敦賀にもたらされたことが記されている。
 また、元禄七年の下り荷の報告によると、下り荷三万六八〇〇駄のうち、二万一九六〇駄は茶、一万四八四〇駄は諸荷物で、塩津から一万二五〇〇駄、海津から二万三二五〇駄、大浦から二二〇駄、柳ケ瀬から八三〇駄が下された。荷物は、当時先進地であった畿内の手工業生産物が主となっており、ほかに武器や農具などが北国に送られた。



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