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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      四十物
 上り荷で米・大豆に次いで重要な荷物といえば、比較的遠隔の地まで輸送可能なように魚を干したり塩を施した四十物であった。「寛文雑記」には、四十物が送られてくる地方として越前・能登・越中・越後があり、そのほかの荷物としては松前からの干鮭・塩引・煎海鼠・鰊・数子・オットセイ、田名部からの串貝・煎海鼠などがあげられている。
 寛文四年頃、敦賀に入った四十物は七万三三九一箇で、そのうち四万五八八六箇が敦賀で売り払われ、残り二万七五〇五箇が大津および江戸に登せられた。また、先にあげた寛文十年二月九日付の本町問屋の書付には米などの俵物のほかに、着津した品物の取引額として「四十物代 塩共ニ」として二万両ほど、うち六七〇〇両ほどが茶代として払われたことが記されており、この書付では俵物に次ぐ額となっている。
 敦賀では米と茶については売買を仲介する仲が設けられ、仲銀が徴収されたが、四十物などほかの荷物にはこれがなかった。寛文四年、橋野弥二兵衛ほか三人が材木と四十物に仲を設けるよう願い出たが、その願書のなかでも、同じように四十物を「塩共ニ」として二万両ほどの取引きがあるものとしてあげており、四十物が敦賀へ入る上り荷のなかで、重要な位置を占めていたことがわかる。小浜でも宝永四年(一七〇七)に、従来からあった穀物のほかに四十物の類にも仲を設けたいとの願書が出ており(市場仲買文書)、敦賀同様多くの四十物荷が入津したことがうかがえる。
 四十物を取り扱う商人としては、四十物屋・納屋があった。納屋は、「敦賀志」によれば「魚屋」(なや)の当て字であるといい、北国や西国の四十物のほか、米・大豆などの俵物の売買宿を営んでいた。「寛文雑記」には敦賀各町内の九四人の「四十物売納屋」の名前が記されているが、四十物請買六人、四十物為登問屋七人のなかに、納屋と同一人物も見られ、納屋と四十物問屋両方を兼ねる場合もあったようである。
 敦賀では、寛文二年今橋西詰に新たに町を立て、翌年四十物町とした。この町は池子町の枝町で、四十物屋を住まわせる予定であったが、四十物屋が町中に散在していたために、借家住まいが多かった納屋をまずここに移住させた。納屋は他所から来て敦賀で商売を営んでいる者が多かったらしく、寛文期の四十物町の納屋の書上に、同町の納屋九人のうち四人に「越前者」と注記されている。これら四十物の取引きのさい、四十物問屋を通す場合には四十物口銭として三分、その他の問屋の場合には四分の口銭が徴収された。



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