これらの荷物のうち、敦賀への上り荷の最大のものは、米・大豆などの俵物であった。敦賀に入った俵物の産地として前掲表109にみえる出羽・陸奥・越後・越中・能登・加賀・越前・丹後の八か国三七か所のほかに、表108には但馬などがあり、北国・北陸を中心に数多くの国の米が敦賀を中継点として上方に運ばれていたことがわかる。 |
表109 敦賀への着米書
|
注1 丹波殿についてはそのままとした.
注2 「寛文雑記」により作成.
|
敦賀へ入津した米・大豆の量および入津船数については、「寛文雑記」に明暦三年から元禄四年まで、「指掌録」に慶安元年(一六四八)から文化十年(一八一三)に至る記事がある。ただし両書の数字には寛文六年をはじめ数年分について米数に若干の差異がみられる。図20・21は、「指掌録」の数字をもとにその推移を示したものである。寛文・延宝期(一六七三〜八一)にはおおむね敦賀湊へは米・大豆合わせて五〇万俵以上が入っており、寛文四年には米七五万俵、大豆一〇万俵と最高に達した。なお、年により急激な落込みがみられるが、これは主として凶作のため収穫量の減少が影響したものと考えられる。 |
図20 敦賀への米・大豆入津量
|
図21 敦賀への入津船数
|
このように、敦賀へは膨大な量の米が北国からもたらされたが、これらの米には、城米すなわち諸藩の蔵米のほか、商人による商い米も含まれていた。寛文十年十二月九日付で、本町問屋が町奉行へ差し出した書付に、次のように書かれている。
一、 十一万俵程 秋田米
七千俵程 城米
内 三万五千俵程 舟中物
六万八千俵程 茶代米
一、 十八万五千俵程 越後・庄内・本城・津軽米
五万俵程 城米
長岡 上牧 村上 庄内
内 八万五千俵程 舟中物
五万俵程 茶代米
一、 九万四千俵程 所々大豆
六万四千俵程 舟中物
内 三万俵程 茶代
これによれば寛文十年、秋田・越後・庄内・本荘・津軽より合計二九万五〇〇〇俵の米が入津し、うち五万七〇〇〇俵が城米、一二万俵が舟中物、一一万八〇〇〇俵が茶代米であった。舟中物は、どのような荷物か明らかではないが、城米に対するもの、すなわち廻船の買積米など商い米のことであろうと思われる。当時茶は敦賀を通る下り荷として重要な位置を占めていた。茶代米は、後述するように、茶の取引きなどのさいに払われた米である。
諸藩の城米が入る時期は「寛文雑記」に「霜月・二月迄ハ大形越前米之売買」、「遠目鏡」に、勝山・福井・大野・丸岡などの越前米について「其年・明ル春迄段々上ル」、越後米「四五月比ニ上ル」、出羽米「五六月比ニ上ル」とあるように、地方によって若干のずれがあった。「遠目鏡」に記された越前諸藩の城米は合計二万一〇〇〇石(勝山の三万石は三〇〇〇石の誤りと仮定)で、本町問屋の届けた俵数(二九万五〇〇〇俵)と、「指掌録」の同年の入津高(三一万五〇〇〇俵)に違いがあるのは、本町問屋が文書を差し出したのが十二月であったため、越前からの米が一部しか含まれていなかったのであろう。 |