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 第四章 都市と交通の発達
   第二節 湊町敦賀と小浜
    一 中継商業の発達
      湊町敦賀・小浜
 敦賀は、古来日本海側の要津として重要な位置を占めてきた。豊臣政権による国内統一が進み、次いで幕藩体制が成立すると「敦賀と申所ハ北陸道七ケ国、出羽之内秋田・庄内・最上・由利・本城(荘)、奥州之内南部・津軽・会津、何れも御大名衆様御米大豆、諸商人俵物荷物往古当所并若狭小浜江登り、問屋・船持・馬持町在々迄渡世をいたし申候」(「寛文雑記」)といわれたように、小浜とともに北国・奥羽をつなぐ中継都市として栄え、畿内・近江・美濃・伊勢などの諸地域とも結びついていた。
 井原西鶴は元禄元年(一六八八)刊行の『日本永代蔵』のなかで「越前の国敦賀の湊は毎日の入舟判金一牧(枚)ならしの上米ありといへり、淀の川舟の運上にかはらず、万事の問丸繁昌の所なり、殊更秋は立つゞく市の借家、目前の京の町、男まじりの女尋常に其形気北国の都ぞかし」と記している。西鶴の門人の手になる『日本新永代蔵』でも「敦賀は北国の長崎にて、春はきさらぎの末、秋は長月のはじめまで、諸国美産の万人此の湊に入りきたり、銅・鉛・米・紅花・青苧・鰊子・いりこ・串貝・にしん、其の外さまさまの商売、問丸軒をならぶる、取りわけ越後屋・茶屋・山本数駄の荷物を出し入れして賑しき商ひ、誠に長者に似しといへるもさる事なり」と、当時の敦賀の繁栄ぶりが描かれている。
 表107は、明暦二年(一六五六)から寛文十二年(一六七二)までの敦賀からの上り荷の駄数を示したものである。これによれば、少ない年でも約二〇万駄、多い時には五〇万駄以上の膨大な荷物が敦賀から琵琶湖を経て上方へと運ばれた。一日当たりに平均すれば、五五〇駄から一三〇〇駄ほどの上り荷物が敦賀を通って運ばれていた計算になる。

表107 上り荷の駄数

表107 上り荷の駄数
                        注1 寛文6・7年記載なし.
                        注2 「寛文雑記」により作成.

 小浜も寛永年間(一六二四〜四四)より次第に湊が賑やかになり、天和元年(一六八一)には米・大豆・小豆二四万三〇〇〇俵の入津をみるなど最盛期を迎えた(『稚狭考』)。
 このように、敦賀・小浜には北国からの多くの荷物が陸揚げされ、また上方からの荷物がこの地から北国へと送られた。敦賀・小浜ではこれら荷物の商いが活発に行われ、多くの商人が活躍した。



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