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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    四 城下町の生活
      巡見使への対応
 幕府の巡見使に対しては、諸藩の大名は相当気をつかっており、町人たちには細かな指示を出し、庄屋たちに対して問答の模範回答ともいうべきものまで作成させていた。とくに城下に宿泊するような場合には非常な気の配りようであった。そのことは、寛政元年の巡見使の本陣で当主の補助を勤めた沢屋や供の者の下宿を勤めた浜屋などの記録からうかがえる(宮澤秀和家文書、はまや西沢茂雄家文書など)。
 巡見使の休泊が決まると、まず本陣三軒と供の者の下宿三軒が指名され、藩の役人と町役人とで宿六軒の見分が行われた。各宿では、具合の悪いところが指摘され、後日、外まわりの吟味や普請の見積りがなされ、屋敷・土蔵の絵図も作成された。幕府からは、道筋の掃除や道橋を作ること、送迎、家の修繕・畳替えは無用であることや、休泊に入用の飯米・塩・味噌・薪・酒肴・野菜などは相場の値段で売ること、金銀米銭衣類道具などはもちろん酒肴菓子など差し出さないことなどの触があらかじめ達せられた。しかし、実際には家の普請や畳替え、通り道への敷砂などがなされているのである。
 寛政元年正月十六日には、川端弥七が町年寄仮役に仰せ付けられており、二十六日には町年寄から各町庄屋へ巡見が済むまで訴訟の願書は出さないように指示している。
 同年は大雪で、六間町の辺りは家の軒ほどまで積雪があったので、二月十四日には、巡見使の来る前に普請ができるように町年寄から各町庄屋へ「雪割」するよう申し渡し、本陣三軒については町から人足五七〇人ほどを出して、二月十六日頃から雪掻にかかった。
 正月二十五日に、本陣と下宿の給仕・料理道具方が指名された。本陣鍋屋には、当主のほか補助・給仕人・道具方・料理人など四一人、下宿浜屋には、給仕人・料理人など一五人、両宿兼任の焚出し宿・夜具宿・乗物宿・表裏門番人一九人、合計七五人が指名された。その他、三本陣兼任で食料や衣類・髪結など巡見使一行の御用に応じる者八四人も指名された。
 三月五日・七日には町役人によって通り道の下見分、九日には巡見使の遠見人足・立駕篭・立馬など役割分担が行われ、十日には辻々を固める庄屋・組頭などの場所を指定した。町口の番所は一一か所、そのほかに自身番が三〇か所もあった。四月四日に通り道と本陣三軒の見分があり、中村道通りが悪いので宰領の庄屋・組頭はしかられ、作り直しが命じられた。四月八日には町年寄によって下宿三軒の見分が行われた。



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