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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    四 城下町の生活
      芝居興行
 芝居などの興行は人を集めるのが目的であるため、種々の問題が起ることが予想された。寛政十年大野で行われた曲馬興行は、八月二十五日より晴天一〇日の間許可されたが、火の用心、喧嘩口論、博奕などに注意する旨の一札が興行主と請負主から町年寄に宛てて出され、興行の舞台も町はずれの篠座社境内であった(宮澤秀和家文書)。享和三年(一八〇三)の操り人形芝居興行は、五月晦日より一五日間熊野前道五番町  甚左衛門所有の畑に小屋を建てて行われた。この時は、場所の貸し主甚左衛門からも町年寄に宛てて迷惑をかけない旨の一札が出された。この時の役者は合計一六人であり、三番町の太助方に宿泊していたが、太助からは役者たちに不埒なことをさせない、みだりに外出させない旨の書付を町年寄に出した(斎藤寿々子家文書)。
 また、芝居の興行は個人の金儲けのためであることが多いが、享和三年七月には、山王宮の普請の費用をかせぐために絡操人形と子供役者物真似の興行を、山王宮氏子惣代である三番町庄屋以下七人の町庄屋が町奉行に願い出ている。文化十二年(一八一五)八月に毘沙門境内で行われた曲手鞠取興行は、火消頭取が芝居の「徳分を以火消道具」を拵えることが目的であった。
 もちろん女の芝居は禁止されていた。しかし、なかには女の役者もいた。天明七年四月に篠座村で行われた子供踊の役者のなかに女がおり、家中や町方の若者が夜に役者の宿へ行って酒を飲んだことが記されている。この役者たちは、福井・大野・府中の順に興行する予定であったようで、人が集まりやすい町を渡り歩いていた様子がうかがえる(斎藤寿々子家文書)。
 その他、大野の町年寄用留の中には、藩主やその家族の外出のさいに子供たちが後を付いて歩かないようにとか、塗替えてきれいになった壁に子供たちが落書きをしないようになどという触が出ており、当時の子供たちの遊びの一端がうかがえて興味深い。



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