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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    三 城下町の商工業と町人の負担
      町による負担の差
 さらに、宝永元年十月のものについては町ごとの金額がわかるので、繁華街とそれ以外でどのような違いがあるのかも紹介しておきたい。総額一八七七両余のうち最も多くを納めたのが新町(のちの京町)で六二三両余、次いで大黒町と本町の三〇三両余、横町(のちの常盤町)の二六四両余であった。この四町の全体に占める割合は、それぞれ新町三三、大黒町・本町一六、横町一四パーセントであり、合計で八〇パーセントにもなる。これに油在家町(のちの室町)の九一両余、上市町の七六両余、鍛冶屋が多かった柳町の七一両余を加えると、全体の九三パーセントに達する。一方、一人当たりの金額の多い町をみると、新町一五両二分余、横町一二両二分余、本町九両弱、大黒町七両三分余であった。これらの次に上市町・油在家町が三両台で続き、柳町・今道町(のちの善光寺町)・北府町が二両台であるのを除くと、他は一両未満でしかなかった。これを町中の斗代と比較すると、七石六斗であった本町・大黒町・油在家町のうち油在家町の金額がやや少ないが、残る二町は繁華街に応じた金額を納めたといえよう。また、最も金額の多かった新町の斗代は四石五斗であり、一人当たりで二番目に多い横町も三石六斗であるので、斗代の差は一応妥当なものと思われる。
 また、文政十二年(一八二九)十一月に福井に課された調達金は、家の間口の間数に対して課されており、全町一律ではなく間口一間について、「上ノ上」は銀五〇匁、「上ノ下」は三〇匁、「中ノ上」は二〇匁、「中ノ下」は一〇匁、「下ノ上」は五匁、「下ノ下」は二匁を出すというように、家の位置に応じて六段階に分けて徴収された。
 大野においても、寛保元年に若殿様の婚礼費用として一二五〇両の御用金が町方に課せられた。このうち七五〇両は御用達町人で、五〇〇両は残る町人で調達するように命じられたが、町年寄・庄屋・組頭たちは「元来五〇〇両というお金は多額であるので、調達できるかどうかわかりません」ということを町奉行に断わり、結局、御用達町人二三人で七五〇両を調達し、町方二九三人で五〇〇両を調達した。後者のうち、一両以上を出したものは七九人であった。当時の大野城下の家数は枝村も含めて一二五九軒であるので、四分の一ほどの家が金を出したことになる(斎藤寿々子家文書)。
 以上のように、城下町には商工業者が集中していたために、農村部とは違って臨時の負担が大きかったといえよう。



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