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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    三 城下町の商工業と町人の負担
      御用金の割当
 これらのうち、府中に課された宝永元年四月・十月と享保元年五月の御用金については、どのように町人に割り当てられたかを知ることができる。宝永元年四月には三〇〇〇両、十月には一八七七両余が割り当てられた。また、享保元年には四一六〇両が割り当てられたが、実際の納金額はそれを上回る四二五三両であった。
 これらの割当を示したものが表106である。宝永元年四月には最高五〇〇両一人、次いで一八〇両一人、一四〇両二人、一〇〇両三人と続き、一〇両以上を納めた人数は五一人である。最も金額の少ないのは金二朱で、人数は最も多く七二人、次いで金一分の五六人が多かった。納めた人数の合計は三五三人で一人当たりの金額は八両二分ほどであった。十月は二度目になるので、各人に四月の金額の六割から七割程度が割り当てられ、最高は三〇〇両一人、次が一二〇両一人で、一〇〇両をこえるのはこの二人だけであり、一〇両以上を納めた人数も三五人に減少した。最も少ないのは銀五匁で、これを納めた人数は四二人であった。納めた人数全体も三一三人に減少し、一人当たりの金額も六両ほどに減少した。

表106 府中町の御用金割

表106 府中町の御用金割
                注) 宝永元年分については「諸記録」(武生市史編さん室
                   保管文書),享保元年については「大殿様御用金割」
                   (辻茂兵衛文書)による.
 ところが、享保元年には、三五〇両二人、二八〇両二人、二五〇両一人、二〇〇両一人と、二〇〇両以上も納めた人が六人もおり、最低は一〇両で、それ以下の金額は割り当てていない。合計七〇軒の家で四二五三両を負担したので、一人平均では六〇両余にもなる。両年の府中の家数は不明であるが、延享元年(一七四四)の本町一八町の家数一一九九軒と比較すると、享保元年には、五パーセントほどの家で御用金を負担したことになる。



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