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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    三 城下町の商工業と町人の負担
      町人の諸負担
 城下の商工業者は、町地子以外にも種々の負担を負わなければならなかった。福井については、小物成として、宝永元年に豆腐役判金三枚、室役銀一貫六八〇匁九分、紺屋役銀九六三匁八分六厘、塩役銀二〇〇匁があった(「宝永元年領分物成帳」松平文庫)。
 府中については、貞享四年(一六八七)に糸役銀五五四匁七分、紺屋役銀一四五匁八分、肴屋役(肴売役・肴役)銀六〇六匁五分、室役銀二〇九匁、鍛冶役銀一二七匁五分、蝋臼役銀二〇匁、豆腐役小判七両二分、布商売運上(布判賃)銀九貫二〇〇匁、油役銀二匁と油八斗三合があり、そのほかに山手役銀二二八匁八分・米一五石九斗二升九合があった。総額は、金七両二分、銀一一貫〇九四匁三分、現物納の油八斗三合、米一五石九斗二升九合であった(『武生市史』概説篇)。
 大野の小物成は、松平氏時代には、酒役・麹役・肴役・口留役が銀三貫二〇〇匁ほど、塩役が一軒につき銀一〇匁ずつ、紺屋役が一軒につき銀四匁ずつなどがあるが、詳細はわからない(「大野惣高諸役品々書上覚」松田五郎兵衛家文書 資7)。土井氏が入封した天和二年には、銀納の分が桧物屋役三六匁、紺屋役四七匁五分、塗師屋役二四匁、畳屋役八匁四分、白銀屋役一二匁、蝋臼役八六匁、塩売役一五〇匁、鍛冶役二三〇匁一分、笹俣村・若生子村米口留役一貫〇二六匁五分、大野町糀室・肴役と勝原村  ・秋生村・大納村口留役三貫目、面谷銅山運上一〇貫目であり、合計一四貫六二〇匁五分であった。米納の分としては、川役六石九斗八升二合、作徳出分八石、山札代米一石四斗九升三合があり、合計一六石四斗七升五合であった(「大野藩郷村高帳」土井家文書 資7)。
 これらの負担のうち大野藩領全体の中で大野城下だけに課されていたものに、桧物屋役・塗師屋役・畳屋役・白銀屋役・塩売役、口留番所  があった関係で笹俣・若生子両村に米口留役、その他面谷銅山運上・川役などがあり、そのほか紺屋役は大野藩領全体の七三パーセント、蝋臼役は五〇パーセント、鍛冶役は九七パーセントを占めていた。銀納額総合計は八一パーセントであった。



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