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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    三 城下町の商工業と町人の負担
      町地子
 農村における本途物成に当たるものが地子(町地子)である。福井については、天正十二年(一五八四)の「丹羽長秀奉行人連署状」(橘栄一郎家文書 資3)に、城下に新たに地子銭を課したことがみえる。この時の具体的史料はないが、慶長三年の「木田内堀町屋敷方検地帳」(浄光寺文書 資4)によれば、免(年貢率)は不明であるが屋敷地の斗代は四石と非常に高かった。その後、結城秀康は、慶長六年に「御城下市町之地子米御免被成」と、城下町振興策の一つとして町地子を免除した(「家譜」)。ちなみに「正保郷帳」には福居庄町地子一四四二石七斗一升一合が記されている。
 府中町地子は「正保郷帳」に六六七石八斗六升三合と記されている。この石高はすべてが屋敷地であった。斗代は均一ではなく、表104に示したように、一反当たり七石六斗から一石五斗まで九段階に分かれていた。最高の七石六斗の町は、本町・大黒町・室町といった府中の中心部の北陸道に沿った町であり、商業活動の活発だった町である。同道沿いで、この三町の南北に位置する京町・横町もかなり高かった。一方、最低の一石五斗の岩永町などの六町は、町西部の寺社の間に成立した町であり、北陸道に面した町ではない。
表104 府中18町の斗代

表104 府中18町の斗代
      注) 武生東小学校編『郷土地理』による.

 地子は米ではなく銀で徴収されており、毎年十一月十日に当時の米の値段をみて地子の額が決定され、各町に賦課された。各町では各人の屋敷地の面積に応じてこれを賦課し取り立てて、十二月の五日・十日・十五日・二十日に役所へ納入した。二十五日に府中全体の勘定が行われた。未進の場合は翌年の四月晦日から取立てが行われた。
 大野の場合は、「正保郷帳」「天保郷帳」では枝村を含み石高はいずれも五〇〇〇石をこえ、「元禄郷帳  」では大野町分だけであるが四四九二石余と、府中よりもかなり大きいが、この高は田畑と屋敷地の高の合計である。このうち屋敷地のみの高は、寛保三年(一七四三)には四三〇石余であり、府中の三分の二程度であった。表105のように、五番町  ・三番町が多く五〇石をこえているが、大工町は五石余、鍛冶町は一一石余と少なかった(「大野町免割絵図」)。屋敷地の斗代は、町用留にみられる売買の記録を検討した結果、町のどの場所であっても一律に二石であったので、この高は町の面積をも示している。また、「大野町惣高附録」(宮澤秀和家文書)による天保七年(一八三六)の高は四一五石余であった。

表105 寛保3年(1743)大野町屋敷地の免別石高

表105 寛保3年(1743)大野町屋敷地の免別石高
   注1 合未満を四捨五入したので,合計は合わない.
   注2 「大野町有租無租地図」(大野市歴史民俗資料館文書)による.

 大野町全体の免は、宝暦六年の「大野藩領村々本高家数人数覚帳」(武田知道家文書 資7)によれば、定免で三割二分八厘であった。だが、これは田畑についてのみで、屋敷地については、表105のように田畑の三割二分八厘よりかなり高い五割から一〇割のあいだで免に差をつけて、繁華街から多くの年貢を取るようにしていた。免が一〇割の場所は美濃街道が通っていて大野の最大の繁華街であった七間通りに面した七間西町のうち六二パーセントと同東町のうち四二パーセントであり、それに次ぐ九割三分の場所も美濃街道が通っていた一番上町のうち六パーセント、同下町のうち九七パーセント、三番町のうち一一パーセント、五番町  のうち二八パーセント、七間西町のうち六パーセントであった。繁華街から離れるにしたがって免は低くなるが、美濃街道に沿った場所は平均的に免が高かった。逆に、主要な通りに面していなかった比丘尼町・鍛冶町・大工町は最も高い場所でも免は六割六分でしかなかった。
写真133 大野町免割絵図

写真133 大野町免割絵図

 丸岡の場合は、年貢地として室町・新町・富田町・谷町・石城戸町の五町がみえ地子米を徴収されていたが、竹田口町・小人町の二町は「御城廻り五ケ所之内御高之外」として小物成を徴収されていた(「丸岡領内諸事覚書」『南越民俗』四巻二号)。享保十九年(一七三四)には谷町の屋敷地は斗代二石の上田、一石七斗の中田、一石二斗の下田、一石の下々田からなり、すべて免は一〇割であった(「谷町屋敷畝歩并御地子米改帳」戸田家文書)。同町は丸岡城下の中心街であり、商業地として好適な場所を上田にしていたと思われるが、それでも上田の面積は七パーセントにすぎず、中田が六八パーセント、下田が二四パーセントを占めていた。



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