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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    三 城下町の商工業と町人の負担
      福井の商工業
 越前最大の城下町であった福井の商工業者数を具体的に知ることのできる史料として、宝暦十三年(一七六三)の「町中医師并諸職人商人付」(『稿本福井市史』)がある。これを多いものから順に並べて表にしたものが表103である。全部で七三職種一六六七人があげられている。職種数七三は、福井が湊町でないことを考慮しても、小浜の天和三年(一六八三)の職種数九九に比べて少ない(『拾椎雑話』)。また、町人の人口が小浜の約二倍であるので、一六六七人という数字も、小浜の一七六一人に比べて少ない。この理由は、以下に述べるように確実に存在したはずである呉服屋・米屋・薬種屋・塩屋・紙屋などが記されていないからである。このように史料上制約はあるが、衣食住それぞれに関する職業をみてみよう。

表103 宝暦13年(1763)福井町の商人・職人

表103 宝暦13年(1763)福井町の商人・職人
注) 『稿本福井市史』による.

 衣に関するものには、紺屋・傘屋・合羽屋・打綿屋・仕立屋などがあるが、呉服・履物に関するものが欠落している。打綿屋は八二人もおり、この頃になると綿がかなり普及していたことがうかがえる。食に関するものには、魚屋・酒屋・室屋・油屋・豆腐屋・麦屋・八百屋・菓子屋があり、魚屋・酒屋はそれぞれ一七一人、一五三人を数える。住に関するもののうち建築関係のものには、大工・桧皮・木挽・壁塗などがあり、大工は天和三年の小浜の家大工三一人に対して福井は一三三人、桧皮は同じく一三人に対して五九人、木挽は一五人に対して五一人、壁塗は小浜では寛永十七年(一六四〇)に左官として一人みえるのに対して六人おり、いずれも福井は小浜の三倍から六倍になっている。城下の人口規模以上に福井における建築関係の職人の数は多いといえる。ただ、ここでも材木屋が欠落している。家具や雑貨を扱うものには、指物屋・障子骨屋・表具屋・組呉蓙屋・畳屋・鍛冶・桶屋・塗師屋・桧物屋・筆屋・白銀屋・蝋燭屋・鏡屋・土器屋などがあった。
 医療関係のものには、医者・針立・外科・目医者・歯医者のほかに馬医もみえるが、薬を扱う薬種屋は記されていない。周辺の農村部の需要に応じるものも、鍬柄屋九人がみえるだけである。一方、侍のための職業は、小浜にもみられた研屋・鞍包・矢師・鑓屋・鞘師・柄巻屋のほかに、弓屋・矢の根師・鍔屋・鉄砲屋・鉄砲台師・鉄砲金具師・具足屋などがあった。
 また、蒔絵師・絵師・仏師・彫物師など美術工芸的な職業がみられることは小浜と比べた場合の福井の特色であろうし、石屋が五四人もみられることも、笏谷石という特産物があったからであろう。
 では、これらの商人・職人は城下のどこに住んでいたであろうか。町人町の屋敷割がわかる唯一の史料である慶長十七年(一六一二)頃の「北庄四ツ割図」(松平文庫)には職業を冠した町名が七つある。米町・魚町・板屋町・紺屋町・呉服町・木町・塩町である。このうち魚町は東西に分かれており合計すると六九軒、紺屋町には五一軒の屋敷があった。屋敷割はそれほど変化しなかったと仮定すると、宝暦十三年の紺屋四三人は紺屋町に集中していたかもしれないが、魚屋一七一人は魚町だけに住んでいたのではなく、城下に散在していたようである。具体的に城下の一軒一軒の職業を明らかにできる史料がないので、これ以上は不明であるが、職業を冠した町にはある程度の同業者の集中があったのではないかと思われる。
写真132 北庄四ツ割図

写真132 北庄四ツ割図



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