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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    二 町役人と町政
      町役人
 町政はどの城下町においても領主側の役人と町人側の役人(町役人)とで運営されていた。福井は規模が大きいため、一一の町組に編成されていたが、領主側の役人は全体を管轄しており、寺社奉行・町奉行が兼任で一人置かれ、その下に「日勤諸事取次」の与力四人、「日勤諸事記録」の書役二人、組の者二〇人が配置されていた。組の者の内訳は、「組中之諸願達取次并取締」の小頭一人、「日勤市中廻り諸事取締」の分役四人のほか、「二人ツゝ市中廻り諸事探索」の「肩」の者、三ノ丸と米町の時鐘打、牢番などであった。さらに組下に犯罪人取締りの目明二人がつけられていた(「諸役職掌記」高嶋文庫)。
 一方、町役人は、町全体を管轄する町年寄二人と記録・雑務を担当する物書一人が置かれ、町組ごとに輪番(町組頭)二人、町組を構成する町ごとに庄屋一人と組頭が置かれ(『稿本福井市史』)、その下の十人組ごとに十人組頭が置かれていた(願乗寺文書 資3)。慶長十七年頃の「北庄四ツ割図」には全部で三一の町が記載されているが、「庄屋」の注記があるのは二二町で三五軒、「庄屋年替」の注記は五町で八軒にしかなく、両者ともに記されていない町が六町もあった。一方、庄屋が三軒の町が一町、二軒の町が一七町もあり、藩政当初においては町庄屋の数は一定していなかったか、あるいは隣町の住人が庄屋を勤めていたのかもしれない。また、年番で庄屋を勤めていた町も存在していたようである。
 町組頭については、安永三年(一七七四)十一月に、新たに組頭が六人任命され、先年のように一一人になったと記されており(橘栄一郎家文書)、享和三年(一八〇三)の「福井分間之図」(松平文庫)にも、各町一人しか記載されていないので、『稿本福井市史』に記された二人のうち一人は仮役(見習役)であって、正式には一人だけであったのかもしれない。なお、同図に記された各町組を構成する町を表102に示した。

表102 福井の町組

表102 福井の町組
注) 享和3年「福井分間之図」(松平文庫)により作成.

 府中については、本多家の貞享三年(一六八六)の職制をみると、町奉行のほかに町手代地方支配、町地子銀支配という町の支配に関係する役職が置かれているが(「御礼之次第并御半減之一件」武生市立図書館佐久間家旧蔵文書)、天保七年には寺社町奉行と町与力九か村支配という職になっている(「越府中給帳」同前)。いずれにしても町奉行は一人で、その下に町手代二人、足軽一三人が置かれていた(『武生市史』概説篇)。町手代屋敷は図18によれば二軒あり、南小路町と西籏町の交差点の西北に記されている。また、町役人としては町全体を管轄する町代、各町に庄屋が置かれ、その下に十人組頭(十人頭)が置かれていた。町代は本多氏から任命され、当初二人で文化年間から三人になった。町庄屋のうち大黒町・本町の庄屋はそれぞれ町代を勤めた桑野屋・大文字屋(浅井家)が兼ねることが多かったようである(同前)。
 町代の呼称は、福井と同じように町年寄と改称されたとされているが(『武生市史』概説篇)、町代を勤めた大文字屋の記録をみると両者は違うようである。すなわち、浅井茂左衛門矩吟は宝暦八年(一七五八)に家督を相続し、町代見習と本町庄屋役になり、同十一年に町代本役になった。その翌年、府中は二度の大火で町家一四三七軒、家中家九七軒のほか、本多氏の居館・下屋敷も焼失した。この時、茂左衛門は焼け残った土蔵を本多氏に提供し、しかも、自分の才覚で本陣を再建した。この功によって、彼は明和二年(一七六五)二月に町代と本町庄屋役を免じられ町年寄を仰せ付けられた。さらに、同七年には町外代官役兼帯を命じられた。ちなみに、本町庄屋役は桑野屋が大黒町と兼任で勤めることになった。
 したがって、彼の経歴からみると、町年寄は町代よりも格が上の役職であり、両役とも併存するものであったことがわかる。なお、彼の後の浅井家当主は町代見習兼本町庄屋役を経て町代本役となるだけなので、町年寄は茂左衛門だけであったこともわかる。
 大野にも町奉行が一人置かれ、町方には町年寄二人、各町に庄屋一人・組頭二人が置かれ、その下に五人組ごとに五人組頭が置かれていた。町奉行は天和三年(一六八三)の分限帳(土井家文書)をみると、専任で一人だけであるが、宝暦七年から郡奉行・寺社奉行と兼帯で置かれるようになった(「前録」土井家文書)。
 町年寄二人は毎月交代で勤務し、巡見使の休泊のような重要な出来事がある場合には、仮役が一人置かれた(はまや西沢茂雄家文書)。町庄屋は、一番上町・一番下町・二番上町・二番下町・三番町・四番町・五番町  ・七間西町・七間東町・比丘尼町・横町・鍛冶町・大工町の一三の町に置かれていたが、弘化元年(一八四四)八月から七間東町・七間西町が七間町に一本化され一二人になった(「大野町年寄用留」斎藤寿々子家文書)。また、町庄屋のなかから月行事が任命され、町年寄を補佐した。
 小浜の場合は、町奉行が二人置かれ、配下に同心が二〇人、それを統轄する小頭が二人置かれた。町年寄は二人置かれ、最初町代とも称されていたが享保十一年(一七二六)から町年寄と呼ばれるようになった。このとき各町の肝煎も宿老と改称された。



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