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 第四章 都市と交通の発達
   第一節 城下町とその構成
    二 町役人と町政
      家持・地借の割合
 福井には、慶長年間(一五九六〜一六一五)に役家・無役家が合計三一七八軒、地名子が六五〇軒、地代家が一六二軒、寺社門前が四〇七軒あり(前『県史』第二冊第二編)、正徳三年(一七一三)には役家・無役家の合計が三三五一軒、地子屋敷が二三一軒、地名子が五〇一軒、門前家が四七三軒、その他松本組(松本町組)に地方家一〇軒があった(『稿本福井市史』)。両年とも家持の割合は七二から七三パーセントと高かった。府中も、天保九年に本町一八町の本家九七二軒に対して地借が四一八軒で、本家の割合が七〇パーセントであり、福井とともに他の城下に比べると大変高かった。
 大野は、六代藩主利器が土井家に婿養子に入った文化六年の祝儀の記録では、二番下町の分が不明であるが、残る一二の町の家数合計が一一七〇軒、本家は六七〇軒、地名子が三六軒、借屋が四六四軒であった。本家の割合は五七パーセントにしかならず、借屋が四〇パーセントを占めており、とくに二番上町と七間西町の家持の割合は三七パーセントと四一パーセントでしかなかった。
 勝山は、天保八年の宗門人別帳では、後町が二一四軒のうち高持・小高持二三軒、地名子一二九軒、借屋六一軒で、袋田町が四六八軒のうち、高持・小高持八九軒、地名子一九六軒、借屋一八三軒で、それぞれ家持の割合は一一パーセント、一九パーセントにすぎなかった(松屋文書、勝山市教育委員会保管文書)。郡町の帳面が伝存していないので全体はわからないが、地名子の割合が大変高く、とくに裏町的であった後町では六〇パーセントをこえる点に特色がある。
 



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